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41 遺子・恪二郎 〜数奇な人生を歩む

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 佐久間象山の遺子、恪二郎が認めた手紙=写真=を所有している人がいる。象山支持派の先祖が大切に残したものとみられる。


 所蔵しているのは松代町清野の元公務員、山口研造さん(64)。手紙の宛名は松代藩の「御武具方様」。書簡は3通で、山口さんは「子どものころ、祖母が額に入れて飾っていたのを覚えている」と言う。


 2004(平成16)年11月、山口さんは小学校時代の恩師、関保男さんの自宅を訪ね、「恪二郎の手紙を読んでほしい」と依頼した。解読されたのが、次のような内容だ。


 雪天(雪空)弥(いよいよ)御安泰御勤め成され、珍重賀し奉り候。然れば、別紙切手御書物拝借の義、御手数乍ら多々頼み奉り候。右貴意を得可き為め此の如くに御座候     十一月廿五日


 関さんの解説によると、2通は恪二郎が切手書物の拝借を願い出た書状。もう1通は小銃の弾丸製造器の設計図を送ったもので、興味深い文章という。


 恪二郎は象山亡き後、数奇な人生を歩んだ。

象山横死の際、恪二郎は17歳。義理の伯父に当たる勝海舟が心配して神戸に引き取り、世話をしようとしたが、佐久間家は断絶。恪二郎は父の門弟に勧められ、(幕府を助ける佐幕派の)新撰組隊長、近藤勇の食客となり、父の仇を討とうと決めた。


 ところが、象山の門人、越後・長岡藩の小林虎三郎がこのことを知り、「先生は私怨のために殺されたのではない。国家的観念で、ただ意見を異にしたからだ。それを仇敵として付け狙うのはよろしくない」と反対した。


 1868年、明治戊辰(元年)の春、恪二郎は新撰組を脱走。薩摩の西郷隆盛に従い、各所で戊辰の戦闘に従事し、官軍の勝利で鹿児島に凱旋した。


 71(明治4)年に上京し、勝海舟の援助で慶応義塾に入学。73年、司法省出仕となり判事補に。75年、伊予国、松山裁判所判事に転任。77年2月26日、ウナギの中毒で急死した。享年29。(宮本仲著「佐久間象山全集」より)


 佐久間家は断絶の後、70年に家名の再興を許された。西郷隆盛の斡旋があったといわれる。

 (2012年3月31日掲載)