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42 横浜の顕彰碑 〜通商交易の拠点に強く推す

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 「ドーン ヒュルー パン パーン」-。3000発の花火が夜空を彩った。2010年6月2日夜、横浜市のベイブリッジが見える臨港パークの海上。開港150周年記念祝典で55万人が花火に酔いしれた。この時、佐久間象山を思い起こした人は多くはなかったはずだ。


 同市の野毛山公園の一番高い台地には開港の先覚者、象山の顕彰碑が立つ=写真。近くの掃部山(かもんやま)公園には、井伊掃部頭直弼(彦根藩主で江戸幕府大老。江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士により暗殺)の像もある。


 象山碑の碑文は約300字。その要旨は次のような内容だ。


 「米国のペリーが来朝の折、松代藩軍議役として横浜村にいた佐久間象山先生は当時、熱心な開国論者だった。先生は日本が世界の先進国から取り残されることを憂え、幕府に対して欧米諸国との通商交易が必要なことを献策。その拠点として横浜を強く主張し、幕府の決意を促して国際港横浜の今日の発展の緒を作った。その績をたたえるため顕彰碑を建て永く後世に伝える。


 昭和29年10月1日 佐久間象山顕彰会 (平沼亮三)横浜市長」


 象山が横浜を第一に推したのは炯眼(けいがん)であり、東京が世界的な都市になったのも横浜の隆盛によるものだ。


 ところで、直弼の銅像建立をめぐっては、明治新政府と旧幕府の深い溝が埋まっておらず、1909(明治42)年の除幕時に事件が発生した。


 当時の神奈川県知事、周布公平の父は長州藩士の政之介。政之介は尊皇攘夷派ではなく、過激派の暴走の中で自殺に追い込まれたが、幕府の開国政策には反対だった。


 直弼は同じ長州藩士の吉田松陰を「安政の大獄」で死に追いやった人物。当然、公平も直弼の像建設は許し難かった。知事として「除幕式の中止」を命じたが、旧彦根藩士らは強行。数日後、銅像の首は切り落とされ、直弼は2度も首を撥ねられたことになる。


 直弼の銅像は戦時の金属回収でも撤去され、1954(昭和29)年に開国100周年を記念して再建された受難の像である。

 (2012年4月14日掲載)