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44 小松彰 〜「股肱の臣」となった松本藩士

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 松本地方での茶飲み話では、佐久間象山の話題はめったに出ない。ところが、松本藩士で象山に師事し、象山が暗殺された京都にまでお供した人物がいる。最後は文部大臣に上り詰めた小松彰だ。=写真


 松本史誌などによると、小松は1842(天保13)年3月、六九町に生まれる。通称、左右輔。号は雪巌。松本藩の医官、齢司の長男。幼時から聡敏で、8歳のころ藩学「崇教館」に入る。


 彰は四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)五経(「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)を学び、その上達がすこぶる速く、12歳のころ既に13経を修了。成績抜群で「神童」と藩内を驚嘆させた。


 17歳の時、藩主の戸田光則から遊学を命ぜられ、江戸に出て初めは塩谷宕陰の門で漢籍を学ぶ。次に古賀謹堂の門に遊び、同門の越後の河井継之助と親交を深めた。


 そのころ、象山の風采を敬慕し、松代藩に赴き、象山を師として崇め仕えること前後3年、学業は大いに進んだ。そして、象山の「股肱の臣」(最も頼みとする家来)となり、行動を共にする。


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 1864(元治元)年7月、象山が京都に上った時も従い同行。象山が暴徒に殺された際には、遺児の恪二郎を助けた。その後、松本に戻る。


 明治維新後、倉敷県知事となるなど各地の県令を経て76(明治9)年、文部大丞(大臣)となり、退官。


 官界を退いてからは77年秋、東京株式取引所の初代頭取に就任、86年10月まで勤めた。


 続いて87年4月、両毛鉄道会社の取締役、同年11月、東京米商会社頭取となり、中央経済界の重鎮であったが、88年3月24日に逝去した。享年47。


 国宝松本城の大手門付近の静かな景勝地に79(明治12)年に創建された四柱神社の境内には、小里頼永・松本市長ら松本平の知名人によって小松彰の頌徳碑=同下=が建立されている。

(2012年5月26日掲載)