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45 暗殺の指嗾(しそう)説 〜維新史書物に記述

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 幕末、百鬼夜行が蠢く京の街-。佐久間象山の暗殺をめぐって、当時から長州藩の大物が絡んでいたとする「指(使)嗾(そそのかし)説」がある。それを裏付ける資料はないか調べていると、『忠正公勤王事績』=写真=に記述してあることが分かった。


 長谷川鉄之進(1822年〜71年。越後国生まれ。尊攘論が起きるや京に上り、64年の禁門の変で奮戦。朝廷から賞典を賜る)の日記によると、長谷川と大楽源太郎(1832年〜71年。長門国生まれ。高杉晋作らと尊攘で奔走)が、象山を殺そうと、長州藩士の久坂玄瑞(吉田松陰の義弟)に相談したところ、「お前たちは別に用いるところがあるから、そんな役目をしなくともよろしい。誰かほかの壮士に命ずるから」とのことだった。


 その書物は広島県立図書館所蔵で、約1000ページの防長維新史。忠正公は幕末の長州藩主・毛利敬親の法名。


 そのころ、木戸孝允(初名は桂小五郎。西郷隆盛、大久保利通と共に「維新の3傑」)は京都木屋町・対馬の屋敷に潜伏中。象山は春から京都に来ていた。浪士が屯集する京は篝火が焚かれ、一触即発状態。天皇を彦根に御遷し申す−との風説が起こり、諸国の有志は天皇を敵の手に取られるように思って激昂。


 「象山が唱える説だから、彼を殺してしまえ」との論が起こり、木戸は「果たして象山の説かどうか」を糾すように(配下に)求めた。


 2人が確認のために象山と面会。「彦根遷都説は事実か」を質したところ、象山は「いまや、兵火の巷に化せんとする中、無論だ」と正々堂々と語った。2人は「殺すほか仕方ない」と感じて帰宅。(暗殺の前日)7月10日のことだった。


 象山を殺したという報知に一同、「斬奸(わるものを斬ること)々々、愉快々々」と絶叫した。


 品川弥二郎(長州藩の政治家。松下村塾に学び、尊皇攘夷運動に参加)は「実に、いまから追懐すると、つまらぬこと(象山暗殺)をやったものだ」と語ったという。

 (宮本仲著・佐久間象山全集「遂に兇刃に殪る」による)

(2012年6月9日掲載)