
夏目市政下の最大の課題は、何といっても市町村大合併の問題でした。
『長野市誌第7巻』によると、市の近隣数郡に及ぶ大合併の構想は1962(昭和37)年10月、長野市が近隣市町村に対して広域都市の設立を目指して働き掛けたことから開始されました。
合併に向けて積極的に動いたのは市議会が先でした。倉島至市長に代わって市長に当選した夏目忠雄氏の登庁を待って、同年12月に下高井郡山ノ内町まで含めた人口45万人の大県都を目指した合併構想をまとめました。

63年2月にはやや具体化し、篠ノ井市、川中島町、松代町、更北村、若穂町、豊野町、七二会村の7市町村に呼び掛けました。このうち川中島、更北、七二会については、前回(52年)合併の時から長野市への合併を希望していた経緯がありました。しかし、その他の市町村は理事者研究会で「基本的には賛成」の声が出ましたが、各市町村とも利害関係が絡んで、多様な意向を示しました。
「合併特例法」が施行されると、65年4月長野市は新たに信更村を加えて、長野市ほか1市4町3カ村による任意の合併促進協議会を発足させました。
一方、長野市は大合併に備えて新市庁舎の建設を進め、同年10月には緑町に近代的な庁舎を落成させました。
6月30日、合併協議会小委員会総会では(1)「参加市町村は7月4日までに合併決議をし、調印のあと県会に合併案を提出する(2)新長野市の発足は66年10月16日とする(3)豊野町を除く2市3町3カ村とする-などと決めました。
この日、豊野町は「時期尚早」を理由に欠席しましたが、若穂町はかなり強い町内の反対論を押し切って出席しました。そのため若穂町内には根深い対立が残りましたが、一般町民の間では、これ以上合併の賛否を争うのは無意味だという批判の声も起きてきました。
7月4日、関係市町村理事者会でそれぞれの合併調印を行い、14日に県議会でこれを可決、8月1日に自治大臣名で新長野市の合併が告示されました。
これにより長野市、篠ノ井市、松代町、川中島町、若穂町、更北村、信更村、七二会村の2市3町3カ村の大合併が決まりました。
(2012年7月28日号掲載)
=写真1=新長野市誕生の祝賀会
=写真2=大合併時の長野市域