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滋賀・京都03 三井寺 〜荘厳な鐘の音

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 〈あらすじ〉

 子どもをさらわれた駿河国の母親が京に上り、清水寺に祈願すると、ある日「わが子に会いたければ近江国の三井寺に行くように」とお告げを受ける。

 一方、三井寺の僧は寺の講堂で8月十五夜の月見をしており、中に弟子となった一人の少年もいた。そこに子どもを失って狂った母親がやって来て、鐘楼に登って鐘を突こうとする。僧がとがめると、中国の故事を引き出して言うことを聞かない。

 そのいきさつを見ていた少年が自分の母であることを知り、母親も鐘を突くうちに正気に戻る。親子は再会を喜び、一緒に故郷に帰るのだった。


 三井寺の正式名は「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)」。大津市の琵琶湖西南の長等山の中腹に広がる大きな寺だ。JRでは琵琶湖線大津駅か湖西線西大津駅で下車してバスで。車だと名神高速道の大津インターから湖岸道路を経由して10分程度で着く。訪れた時は、国宝の金堂はあいにく修理中で拝顔できなかったが、見どころはいっぱいで、回りきれなかった。


 金堂の東側に近江八景の一つとして親しまれてきた三井の晩鐘があった。最近は環境庁の「残したい日本の音風景百選」にも選定されている。1602(慶長7)年に鋳造されたもので、除夜の鐘の百八煩悩にちなんで、鐘の上部に108個の突起があるのが特徴だ。国の重文である鐘楼の中に納められている=写真。鐘楼の横に受付があり、一突き300円。力を込めて突くと、鐘の音は荘厳さを秘めて、山ろくいっぱいに響き、琵琶湖へと消えていった。


 金堂の東側の軒下には閼伽井屋(あかいや)がある。閼伽井とは仏前に供養する水をくむ井戸のことで、それを覆った小屋だ。この井戸は天智、天武、持統の三天皇が産湯に使ったことから、「御井(みい)の霊水」といわれていた。これが三井寺という俗名の由来だ。霊水は今も石垣の間からこんこんとわき出ていた。小屋の正面に左甚五郎作と伝えられる竜の彫刻がある。伝説ではこの竜が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたため、甚五郎が竜の目玉に五寸くぎを打って鎮めたという。


 金堂の裏手に、今の鐘の原型である弁慶鐘があった。太平記によると、俵藤太秀郷が竜神に頼まれて大むかでを退治し、その礼にもらった鐘で、三井寺に寄贈した。ところが比叡山との抗争で弁慶に分捕られ、その時、弁慶が引きずったので、「弁慶引きずり鐘」とも呼ばれている。鐘の中ほどにその時の大きな傷跡があった。


 謡曲では狂女となった母親が「まことやこの鐘は秀郷とやらんの龍宮より取りて帰りし鐘なれば」と語る一節がある。母親が突いたのはこの鐘だ。


 重文の経蔵、三重塔、大師堂などを回ると観月舞台に出た。母親が鐘を突いたという舞台で、月見に絶好の場所だ。まだ時間的に月見には早かったが、舞台の横に立つと、再会した親子が感激して眺めたであろう琵琶湖が、目の前に広がっていた。


(2007年10月6日号掲載)

 
謡跡めぐり