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03 タレスと井戸 〜遠回りしながらも人間の生活を豊かに〜 日常を超えた問題

 ソクラテスから歴史を少しさかのぼった紀元前6世紀にタレスという学者がいました。タレスは測量術や天文学に優れ、日食の起こる日時を予告し、的中させたり、数学における基本定理のいくつかを証明したり、万物の根源についての探究を続けた人で、ギリシャ哲学の祖といわれています。


 タレスについてのエピソードの一つが、「タレスと井戸」と呼ばれているものです。天文学に没頭していたタレスはある晩、いつものように星空を見上げながら庭を歩いていました。ところが、上ばかり見ていたので足元に井戸の口が開いているのに気付かず、その中に落ちてしまいました。それを見ていた若い女の召し使いが「ご主人さま、あなたは遠い星の動きについては理解しても、ご自分の足元のことは分かっていないのですね」と言って笑ったというのです。


 このエピソードは、遠くのことばかり考えていて、身の回りに注意を向けることを怠る愚かさを示す話として使われることがあります。しかし、この逆の解釈も大切です。


 日常生活を円滑に過ごせるように頭を働かせることは重要です。しかし、それと同時に、日常を超えた物事を広く、深く考えることは、私たちの誰もが持っている、人間知性の特徴としてさらに重要だ、という考え方です。日々の生活を超えた次元に横たわる事柄について考えることに集中するあまり、目の前のことについての注意がおろそかになることがあり、周りの人々に、それらの問題を探究することの大切さをすぐには理解してもらえないとしても、です。


 最近、世界的大ニュースとなったヒッグス粒子についての研究は、日常生活の関心事からはかけ離れた問題に感じられ、「そんな研究が何の役に立つの」と言いたくなる方も少なくないかもしれません。しかし、井戸に落ちてもなおタレスが続けた天文学や数学、万物の根源の研究は、後の人々に受け継がれて、長い時を経て人間の生活全般を支える重要な基本的な知識となっていきました。このように、目先の現象を超えた奥に深く潜む様々な謎に取り組むことが、遠回りをしながらも、人間の生活全般を豊かにすることに結び付いてきた歴史を見落とさないようにすることは大切です。


 もし、お子さんが、一心不乱に何か考え事をしているように見えるとき、もしかしたら、タレスと同じように、日常を超えた重要問題に心を奪われている可能性はあります。ですから、「ぼーっとしていないで、さっさとお手伝いでもしたら?」と言いたくなったら、タレスを笑った召し使いのことを思い出してみてください。

(2012年7月28日号掲載)

 
続・たてなおしの教育