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九州04 唐船 〜「倭寇」を題材に

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〈あらすじ〉

 九州・箱崎の領主某は、唐との戦いで租慶官人(そけいかんにん)という者を捕らえ、下男として牧場で使っていた。13年たったある日、唐から2人の息子が日本にやって来て、賠償金と引き換えに父を渡してほしいという。

 官人は日本でも2人の子どもをもうけており、たまたま3人仲良く牧場から帰ってきた。官人は息子たちとの再会と解放を喜び、すぐに唐に戻ろうとする。が、今度は日本の幼い子どもが別れを悲しみ、引き留める。老いた父は困り果て、海に身を投じようとする。

 それを見かねた領主は、日本での子どもも解放して連れて行くことを許す。5人は唐船の甲板で喜びのあまり舞を舞うのだった。

    

 平安朝末期に瀬戸内海で暗躍していた海賊が、吉野朝時代に入ると、朝鮮半島から中国大陸の沿岸まで勢力を広げ、略奪、人さらいなどで荒らし回った。外国から「倭寇」と恐れられ、船は「八幡大菩薩」の旗を掲げていたことから「八幡(ばはん)船」と呼ばれた。その倭寇にまつわる話を題材にした珍しい曲だ。


 舞台は当時、外国との往来が活発だった福岡の箱崎。史跡のある箱崎八幡宮は、京都の岩清水、大分の宇佐神宮とともに、日本三大八幡宮といわれる。


 交通は地下鉄「箱崎宮前」が一番近い。ホームから出ると、すぐ頭上に二の鳥居がそびえ立っている。石造りの一の鳥居は、藩主黒田長政により1609(慶長14)年建立と刻んである。くぐると楼門があり、中央に「敵国降伏」と大書した額がある。蒙古襲来で、ここ箱崎も戦場となり、神殿などすべてが焼き払われた。


 その時、亀山上皇が戦勝を祈願して書いた直筆で、それを小早川隆景が1594(文禄3)年、楼門建立の際に拡大して掲げたものといわれる。


 以来、戦の神とされ、境内には蒙古軍が落としていった碇(いかり)石、国歌君が代に詠まれている「さざれ石」、東郷元帥書の石碑、歩兵連隊寄贈の石灯籠などがある。軍国時代に逆戻りしたような印象だ。訪れた時は、暑い日の昼下がり。太宰府天満宮と違って人影が全くなく、むろん韓国の修学旅行生の姿はなかった。


 一の鳥居の右側に小さな庭があり、その奥まったところに「唐船塔」と呼ばれる古びた三重の石塔がある。祖慶官人の息子たちがすでに父は亡き者と思い、唐から持参してきた供養塔だと伝えられている。また、塔の前にこんもりとした石が二つ並んである。官人と日本の妻が別れを惜しんで座った「夫婦石」だという。


 謡曲本の解説では、親子の愛情には国境がないこと、日本の領主の温かい思いやりを描いた曲である、としている。それは分かるとしても、気になるのは残された日本の妻だ。すでに廃曲となったが、夫や子どもと別れた悲しさで、物狂いとなって登場する「箱崎物狂」という曲があったという。手放しで舞を舞うわけにはいかない。

    (清水昭次郎)

(2008年11月8日号掲載)


写真=箱崎宮にある唐船塔