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静岡・神奈川07 小袖曽我(こそでそが)〜小袖が不明に

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 〈あらすじ〉曽我十郎祐成(すけなり)と五郎時致(ときむね)の兄弟は、源頼朝が富士の裾野で巻狩りをすることを知り、この機会に父の敵である重臣の工藤祐経(すけつね)を討つ決心をした。

 母と会うため曽我の里を訪れたが、母は兄・十郎とは会うが、弟・五郎とは会おうとしない。五郎を出家させようと箱根寺に預けたのに、勝手に抜け出したので勘当していたからだ。兄は懸命に弟の許しを請うが、聞き入れてもらえない。

 兄弟があきらめて立ち去ろうとすると、さすがに母は耐えかねて呼び止める。3人はあらためて涙の対面をし、兄弟は舞を舞いながら、それとなく母に別れを告げるのだった。

    

 この謡曲は「小袖」と題しながら、その場面や字句さえない。原本の「曽我物語」では、母が兄弟の薄汚れた姿をみて小袖を与えている。「謡曲が改訂されているうちに、小袖が行方不明になった」(謡曲本の解説)ということらしい。


 曽我の里は小田原市の東部、曽我山の裾野に広がる田園地帯だ。JR御殿場線の下曽我駅から徒歩7、8分で、曽我家の菩提寺である城前寺に着く。満江御前は夫が討たれてから幼い兄弟を連れ、曽我祐信(すけのぶ)と再婚した。一帯は祐信の城館跡。兄弟は17年間ここで育つ。


 城前寺の裏に立派な墓地があり、左に兄弟、右に夫妻の墓が立っている。本堂には烏帽子(えぼし)をかぶった兄弟の木像や、一族の位牌などが並んでいる。山門前には阿弥陀如来の銅像があり、「元文元年(1736)の鋳造」と記してある。実は赤穂浪士の一人、吉田忠左衛門の遺児が出家し、ここを訪れて作ったという。遺児は城前寺第14世の住職となった。


 寺では毎年5月27日、兄弟が本懐を遂げた日を記念し、「傘焼き祭り」を行っている。討ち入りの夜に番傘を燃やし、松明代わりにしたことにちなんだ祭りだ。200年来続き、今は傘不足が悩みだが、全国から奉納され、併設の保育園児も参加して盛大に実施している。


 城前寺から少し離れたところに別所公民館がある。この辺りが「小袖曽我」の舞台となった満江御前の屋敷跡だ。近くに御前の墓石が残っている。


 寺の北側には、曽我地区の総鎮守の宗我神社がある。作家の尾崎一雄の出身地で、祖父の代まで神官を務めていた。曽我祐信の子孫との説もある。尾崎は早稲田時代に莫大な遺産の土地を飲み代にしてしまい、裏の丘陵にわずかな墓域だけが残った。そのざんげでもあろうか『美しい墓地からの眺め』という短編を書いている。


 短編の描写のように、丘陵からの景色は素晴らしい。富士や箱根の山々を間近に仰ぎ、眼下に曽我の里が広がる。一帯は曽我梅林といわれる梅の産地で、2月の花の季節には一般開放される。道端には曽我の遺跡が点在し、尾崎や高浜虚子の文学碑があり、太宰治の『斜陽』の舞台となった雄山荘もあったが、暮れに全焼してしまった。開花期には景観、歴史、文学が楽しめる。


(2010年1月9日号掲載)


写真=城前寺の曽我一族の墓

 
謡跡めぐり