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静岡・神奈川09 禅師曽我(ぜんじそが)〜後半は新潟

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 〈あらすじ〉

 曽我兄弟の従者の団三郎と鬼王は、主人の命令で曽我の里に帰り、母の満江御前に遺品を渡す。母は兄弟の死を嘆いたが、末弟である国上寺の禅師の身も案じ、団三郎を越後の寺に向かわせる。

 一方、禅師は寺で法要を営んでいた時、頼朝の命令で養父の伊東九郎が軍兵を連れて召し取りにやってきた。禅師は母からの手紙で事件を知り、抵抗したあと自害しようとしたが、捕らえられて鎌倉に引き立てられて行く。

    

 満江御前は夫が討たれた時妊娠しており、生まれたのが御房丸。夫の弟の伊東九郎の養子となった。『吾妻鏡』によると、伊東九郎は平家方に味方して討ち死にし、その妻は平賀義信と再婚した。御房丸は結局、義信の領地である越後国の国上寺に預けられ、僧となって「伊東禅師」と名乗った。したがって禅師を捕らえたのは義信で、謡曲が養父の九郎としたのは、作者の勘違いと思われる。


 禅師は護送される途中、鎌倉に着けば処刑されると覚悟し、ならば潔くと、警護のすきを見て自害した。18歳だった。だが、頼朝は僧籍の禅師を処分するつもりはなく、尋問するだけだったといわれている。


 謡曲「禅師曽我」の後半の舞台は、現在の燕市国上にある国上寺(区域は新潟だが、物語の関連で「静岡・神奈川編」に加えた)。


 昨秋、車で国上寺を訪れた。長野市から日本海沿いの国道を北上し、「魚のアメヨコ」の寺泊を過ぎ、大河津分水路を渡ってすぐ右折。しばらく走ると、左に国上山の山道がある。その中腹に休憩所と駐車場があり、そこから徒歩数分で国上寺に着いた。


 この寺は709(和銅2)年の創設で、越後地方の最古刹といわれる。良寛が修行した寺としても知られ、本堂から少し下ったところに、良寛が20年間ほど住んだ五合庵が保存されている。6畳ほどしかない粗末な庵だった。禅師の遺跡は見当たらず、ただ、禅師との関連を書いた「曽我禅司房」という案内板と謡曲史跡保存会の駒札が立っていた。


 五合庵から千眼堂つり橋を渡る。長さ124メートルの朱色のつり橋で、渡り切ると朝日山展望台に出る。眼下に越後平野が広がり、その真ん中に信濃川のはんらんを防ぐ大河津分水路が、日本海へ向かって一直線に走っていた。展望台の裏が駐車場。この一周コースは、見学時間を含めざっと1時間だった。


 国上山に隣接して弥彦山がある。この地方にまで越後鉄道を通し、弥彦温泉郷を開発した久須美秀三郎・東馬父子は、実は曽我兄弟と同族だという。3兄弟の祖父は、仇討ち騒動の火種をつくった伊東祐親で、その墓はかつての領地の伊東市玖須美にある。久須美父子はその系統とみられている。


 新潟市に健在の久須美俊夫さん(85)も一族の一人。能楽をたしなみ、昨年6月、横浜能楽堂で開いた謡曲史跡保存会の記念大会では、「小袖曽我」の舞囃子(まいばやし)を演じた。


(2010年1月23日号掲載)


写真=良寛が住んだ五合庵

 
謡跡めぐり