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10 暗殺目撃者 〜証言基に「碑」を建立

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 1864(元治元)年7月11日、佐久間象山が京都で暗殺された時、その様子を目撃していた14歳の少女がいた。彼女の証言を基に「象山遭難之碑」が建立された経過があり、その子孫を取材した。


 目撃者は田中とくさん(1931年2月10日、80歳で他界)。


 ひ孫に当たる京都市中京区木屋町のたばこ店経営、伊藤(旧姓田中)照子さん(75)=写真右上の円内=が、とくさんの娘に当たる祖母のすゑさんから暗殺時の様子を聞いていた。


 照子さんによると、とくさんがその日、通りで清掃の最中、象山が殺された。それから50年後の1915(大正4)年10月31日、伊藤さん宅から数10メートル離れた高瀬川の対岸に象山遭難碑が立ち、除幕式が行われた。


 除幕式が行われたのは「『電車が通りまっせ』いうて、(夜間)少年が提灯を持って電車の前を走る"先走り"の後から電車が通過していたころ」と、照子さんは祖母から聞いた様子を話す。


 電車が通るので高瀬川に足場を組み、そこに乗って全員が記念写真に収まっている。伊藤家は、そのとき撮影したセピア色(黒茶色)の記念写真=写真=を大切に保存している。 京都や信州から75人が招待された中、とくさん(当時64)は女性でただ一人出席。中央柱のそばにいる=写真中央の円内。


 象山は殺害されたころスタイリストを気取り、西洋馬具を付け、都大路を闊歩していたといわれる。当時の京の街はどんな風景だったのか-。


 京都では古語辞典に出てくる「虫籠」という言葉をよく使う。虫かごのように、細かい縦格子の窓をいうが、転じて狭い家屋の状況を指すこともある。


 庶民が2階から下の通りを見下ろすのは、ご法度。「やんごとなき」方、お公家さん、侍が行き交うので、警戒のために家の造作を設えたのだろう。随分、窮屈な生活環境だったようだ。伊藤家も昔は同じ造りで、通りが見下ろせないように部屋の天井は低く、軒先が伸びていたという。

 
象山余聞