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11 山本五十六元帥 〜尊敬する雲の上の人 米の国力知り尽くす〜

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 真珠湾攻撃を指揮した山本五十六元帥を描いた映画は何本か見ました。『連合艦隊司令長官山本五十六』(1968年)の三船敏郎さんや、『トラ・トラ・トラ』(1970年)の山村聡さんの演技は渋くて良かったですね。昨年は役所広司さんが『聯合艦隊司令長官山本五十六--太平洋戦争70年目の真実』で主役を務めていました。


 山本長官は私にとっては雲の上の人で、もちろん一度もお会いしたことはありませんが、大変尊敬する人物です。


  航空中心の海軍提唱

 1930(昭和5)年、ロンドンの軍縮会議の折、当時の山本海軍次官は、海軍主流派が日露戦争の日本海海戦のイメージを引きずったまま艦船対艦船の総力戦を考えていたのに対し、「これからの海軍は大艦巨砲主義から航空中心になる」という新しい時代をリードする考えを打ち出していました。その海軍の本流をゆくエリートが連合艦隊の司令長官として来られるというので、我々下部将兵もやる気が出ましたね。


 山本長官は長岡藩の士族の出身で、中学時代、将来の希望に「一生に一度、世界をあっと言わせるようなことをやってみたい」と言ったエピソードもあります。海軍大学校を卒業後、海軍省に勤務していた1918(大正7)年、35歳の時に結婚。半年後、米国駐在を命じられ、2年間ハーバード大学で英語力を磨きました。


 第1次大戦後、海軍艦艇の燃料は石炭と重油の混燃から重油に切り替えられつつあり、石油の採れない日本としては、いかに石油を確保するかが海軍の根本問題でした。米国各地の油田を精力的に見て歩き、出張費が出なかったので自費でメキシコまで足を延ばし、石油採掘の実態を確かめたそうです。


 米国駐在が終わった2年後の1923(大正12)年の欧米視察の折にも、テキサスの油田を視察し、デトロイトの自動車産業や各地の油田を見て、アメリカの国力を知り尽くしていました。このため近衛文麿首相から「勝つ見込みはあるのか」と聞かれ、「初め半年や1年は、ずいぶん暴れてご覧に入れますが。その後は...」と言った有名な話があります。


 もう一つ、山本さんが連合艦隊司令長官に就任した訳は、次官時代に日独伊3国同盟に反対したので、本来なら海軍大臣の呼び声が高かったのが、右翼の攻撃から身をかわすために、米内光政海相が取った緊急避難的な人事だったそうです。


 当時、陸軍と海軍は仲が悪かったですね。陸軍は大陸方面に押し出して発展させていこうという大陸国家論だったのに対し、海軍はイギリスのように海洋で拠点をつくりながら発展していこうという南進論でしたから...。


  死に場所をつくる?

 ずいぶん後で聞いたのですが、山本司令長官が1943(昭和18)年4月18日、ブーゲンビル島上空で米軍機の待ち伏せを受けて追撃され60歳で戦死された時、護衛はたった6機だったそうで驚きました。長官機を30機くらいで護衛していれば、そう簡単には墜とされなかったと思います。


 貴重な戦闘機を護衛に使いたくないから断ったという人もいますが、山本司令長官は勝つためではなくて、いかにして停戦、講和に持ち込むべきか、そのきっかけをつくるために戦っておられたんだと思います。しかし可能性が見えなくなったので、ミッドウェーで大敗し戦争の大勢が見えてきたところで、死に場所をつくられたんじゃないでしょうか。

(聞き書き・松原京子)

(2012年7月7日号掲載)


=写真=艦内の山本司令長官(山本五十六記念館提供)

 
原田要さん