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京都11 経正(つねまさ)〜琵琶の名手

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 〈あらすじ〉

 仁和寺の御お室御所に住む守覚法親王は、ちょう愛してきた平経正が一ノ谷の合戦で討たれたので、僧の行慶に管絃講(音楽法要)を命じた。行慶は経正が愛用していた琵琶「青山」を供えて弔っていると、経正の亡霊が現れ、懐かしそうに琵琶を弾き、舞ったりする。そのうち修羅道の苦しみに襲われ、そんな姿を見られるのを恥じ、灯火を吹き消して闇の中に消えていく。


 謡曲は平家物語の「経正都落ち」などを脚色した。舞台となった仁和寺は、光孝天皇が886(仁和2)年に創建に着手し、死去したので宇多天皇に引き継がれ、888年に落慶したという。宇多天皇はこの寺で出家して法皇と称し、御室を設けて住んだことから「御室御所」と呼ばれてきた。


 一方、平安時代の公達は元服前まで、「稚児」として寺などに預けられ、学問や作法を学んだ。平清盛の弟・経盛の子息である経正も、仁和寺に8歳から13歳まで預けられ、守覚法親王からかわいがられ、とくに琵琶の名手だったことから、「青山」という天下の名器を授けられた。


 平家物語によると、経正は17歳で出陣の折、都に帰れないことを覚悟してか、御室御所を訪れて「青山」を返した。この時、法親王や行慶と和歌を詠んで名残を惜しんだ。


 笛の名手だった経正の弟の敦盛も16歳で出陣し、同じく義経の奇襲により一ノ谷の合戦で討たれた。海岸から沖の船に逃げようとしたところを熊谷直実に呼び止められ、一騎打ちに応じて首を取られた。こちらは謡曲「敦盛」に謡われている。兄弟共に管絃に励んだ美少年で、しょせん修羅場の合戦は無理だった。


 世界遺産である仁和寺へは京福電鉄(通称嵐電)の「御室」駅下車、数分で正門に着く。京都三大門の一つで、門の左右に金剛力士が護衛しているので「二王門」と呼ばれている。門の左には御室御所の跡地に建てた御殿がある。正面に進むと京都御所の紫宸殿を移築した国宝・金堂があり、その右に五重塔や経蔵、左に鐘堂、御影堂など重文の建物がずらりと並ぶ。参道の西側一帯の「御室桜」も、遅咲きの名木として知られている。


 ただ「経正」に関連する遺跡は、ここには何もない。名器「青山」が神戸市に「琵琶塚」として祀られており、これが「経正塚」とも呼ばれている。弟の敦盛は同じ神戸の須磨寺などに葬られ、今も線香の煙が絶えない。「討たれ方」により、大きな違いがあるものだ。

(2012年1月28日掲載)


写真:仁和寺の二王門