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013 露の世 ~いとし子を相次いで失い~

這(は)へ笑へ 二ツになるぞ けさからは


露の世は 露の世ながら さりながら

                    小林一茶

       ◇

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 幸せいっぱい、満面の笑顔から、一転して不幸に見舞われ、悲しみのどん底へ突き落とされる...。二つの句を読み比べると、あまりにも落差が大きい。

 

 ここには、漏れ出る泣き声を、こぼれ落ちる涙を、いくら抑えようとしても抑え切れない小林一茶がいる。その慟哭が聞こえてくるようだ。


 いずれも一茶の代表的句文集『おらが春』に登場する。最初の俳句には、前年の5月に生まれた娘に「一人前の雑煮膳(ぞうにぜん)を居(す)へて」との前書きがついている。


 さあ、ハイハイをしてみろ、笑ってごらん。いよいよ二つになるんだよ、新しい年を迎えた今朝からはネ。


 こんな意味を込めたのだった。生まれて間もない赤ちゃんに、大人と同じ正月料理を用意して祝う。それほどまで娘の誕生、そして成長がうれしくてならない。


 その子が疱瘡、つまり天然痘にかかって死んでしまった。次の句はこうだ。


 草の葉に宿った露が朝日を浴びて消えるように、この世の人の命ははかない。そう承知してはいても、それでもなお子どもに死なれたのではあきらめきれないものですよ。


 1歳2カ月。思いもかけなかった長女の、あまりに幼い死である。

"さとくなる"ようにとの望みを託して「さと」と名付けた。願い通りにすくすく育ち、かわいい盛りだった。一茶の気落ちひとしおであったのも無理はない。


 1812(文化9)年11月24日、一茶は江戸生活を切り上げ、郷里の北国街道柏原宿、今の上水内郡信濃町柏原に安住の宿願を遂げた。


 継母との折り合いが悪く、15歳で旅立ってから36年ぶり。既に50歳になっていた。52歳の翌々年4月11日、野尻村赤川の娘きく、28歳と結婚する。


 継母・弟と争ってきた財産分割問題も決着しており、最も落ち着いた暮らしを手にした時期である。ところが切ないことに、きくとの間に生まれた子ども4人に次々先立たれる。


 さとの前には長男千太郎が、わずか28日で世を去った。石、あるいは金のように強くなるよう願った次男石太郎は96日、三男金(こん)太郎は1年9カ月だった。


 そのうえ、きくまで病没してしまう。その後再婚したものの、すぐ離縁。3番目の妻「やを」が次女やたを産んだのは、一茶自身が65歳の生涯を終えた後である。


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 いま"一茶の里"信濃町を歩けば、なじみの深い俳句を刻んだ碑とあちこちで出合う。国道18号沿いには、晩年を過ごした旧宅がある。小高い小丸山公園に上り、旅姿の一茶像が立つ俤(おもかげ)堂や近代的な一茶記念館で、その人柄と業績をしのぶのもいい。

 

 一茶は悲しみを悲しみに留めなかった。私たちの隣にいるかのように親しみやすく、自らの人生体験を伝えてくれる。案外に新しい感性の詩人であったのだ。


 〔一茶俤堂〕1910(明治43)年、一茶を慕う人たちが建てた間口、奥行き5メートル前後の小さなかやぶき屋根のお堂。天井には訪れた俳人らの作品を掲げてある。

(2012年7月7日号掲載)


=写真=一茶俤堂がたたずむ小丸山公園

 
愛と感動の信濃路詩紀行