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13 ミッドウェー海戦 〜不時着し4時間漂流 救出艦上は阿鼻叫喚〜

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 コロンボ空襲から帰還した我々は、横須賀港で補給して休養をとり、次はミッドウェー攻略に向かうことになりました。それまで連戦連勝だった奢りから、その時点では、日本海軍にとってこの戦いが大きな分岐点になるとは予想もしていませんでした。


 1942(昭和17)年6月5日未明、私は2番機、3番機を率いて発艦。約2時間上空を哨戒し、いったん着艦して甲板で朝食を食べ始めたところ、けたたましく戦闘ラッパが鳴り響きました。再び愛機に飛び乗り発艦。見れば水平線すれすれに敵機の大群が接近してきました。敵雷撃機と判明。我々零戦隊は魚雷を一発も命中させることなく、全機(約25機)を撃墜しました。


母艦3隻が炎上

 弾丸を撃ち尽くして着艦すると、一服する間もなく再び敵襲の艦内放送で発艦。第2波の雷撃機群を攻撃中に、空母「エンタープライズ」のSBDドーントレス急降下爆撃機24機の集中攻撃で、「赤城」「加賀」「蒼龍」の3隻が炎上しているのが見えました。


 唯一、無傷で残った「飛龍」にかろうじて着艦すると、愛機は被弾して使用不能と判断され、海中に投棄されてしまいました。搭乗員が飛行機を捨てられては仕方がないので、発着艦の助手を務めていたら「零戦が一機、飛び上がれる。原田、お前上がれ!」と命じられました。


 慌てて乗り込みましたが、飛行機が艦橋よりずっと前方にあるのに驚きました。発艦できるのか不安でしたが、整備員に尾翼をしっかり押さえてもらい、目いっぱいエンジンをふかし、私の合図でブレーキを一斉に外し、一気に飛び立ちました。離艦と同時に脚入れ操作をし、海面スレスレで浮力がつき、かろうじて上昇姿勢に移ることができました。


 一刻も早く高度をとり、敵機を撃ち墜とさねば、と気は焦るばかり。ふと後ろを振り向けば、「飛龍」に火柱が上がっているではありませんか。わずか数10秒後のことでした。目の前が真っ暗になり、日本が負けるのではないかと不吉な予感が脳裏をかすめました。


 ともあれ味方を守らねばと、攻撃を重ねていましたが、自機も被弾し、燃料切れとなり、夕闇迫る洋上に不時着しました。漂流すること約4時間。もう駄目かもしれないと諦めかけていたころ、ようやく駆逐艦「巻雲」が私を探し当ててくれました。


 体力を消耗し切った私は、自力で甲板に上がれず、引きずり上げられました。デッキには手や足のない者、顔のわからない者、焼けただれた者が寝かされており、「水をくれ」「苦しい」「助けてくれ」などと叫んでおり、文字通り阿鼻叫喚の地獄絵のようでした。


司令官と艦長が自決

 夜明け前、私が乗った「巻雲」は、まだ辛うじて浮いている「飛龍」に横づけして、生存者を救出しました。私は「飛龍」の参謀たちと山口多聞司令官とが、水盃で別れる場面を「巻雲」から見ていました。その後「パンパン」とピストルの銃声が響きました。焼けただれた「飛龍」に魚雷が発射され、沈んでいきました。


 日本海軍を代表する提督として名高かった山口多聞少将は加来止男艦長と運命を共にし海中へ...。私はその光景を見ながら涙がこぼれ、どうしようもありませんでした。


 ミッドウェー海戦の敗北は、米軍に暗号が解読されていたのが原因といわれ、日本海軍の中核をなしていた空母4隻を一挙に喪失し、太平洋戦争における主導権を失いました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年7月21日号掲載)


=写真=別れの水盃を交わす山口司令官らを描いた「提督の最期」(1943年 北蓮蔵・画)


 
原田要さん