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014 宵待草 ~大正ロマンの薫り高く~

宵待草      竹久夢二


まてど 暮らせど 来ぬひとを

宵待草の やるせなさ

こよひは月も 出ぬさうな

      ◇

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 歩いていると、思わぬ発見がある。千曲市の大正橋=写真下=で、欄干にはめ込まれた竹久夢二の美人画に出合った=同上。

 しなの鉄道戸倉駅側から、川向こうの戸倉上山田温泉方面へ、10年前に造り替えられた橋は、歩道も広々としていて歩きやすい。

 橋の中ほど、パネルに描かれた絵は一目で夢二のそれと分かる。着物姿の弱々しげな女性が独り、川岸の草に腰を下ろす。周りには黄色い花がちらほら咲いている。

 かなわぬこととあきらめながらも、ひたすら人を待つ。やるせないその風情は、たちまち「宵待草」のロマン薫る世界へといざなってくれた。


 1910(明治43)年8月、夢二は千葉県の犬吠埼に近い海岸、海鹿島(あしかじま)を訪れた。数え27歳。たまたまそこで19歳のかわいい文学少女と知り合い、心引かれる。

 翌年の夏、再び足を運んだ。けれども、夢二が「お島さん」と呼んだ彼女は現れない。既に嫁いでいたのだ。

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 すっかり落ち込んだ気持ちを詩心に託したのが「宵待草」である。もともとは8行にわたる詩だった。夢二にとって最初の詩集「どんたく」に掲載するに当たり、今日に伝わる3行詩に書き改めている。


 この詩に感動したバイオリニスト多忠亮(おおのただすけ)が17(大正6)年、情緒たっぷりに感傷的な曲を付けた。翌年、夢二の表紙絵で楽譜が出版され、大正ロマンを彩る代表作として今なお歌い継がれることになる。

 だから「宵待草」誕生に信州との直接的な接点はない。夢二自身も岡山県に生まれ、上京して苦学の末、挿絵画や叙情画の売れっ子、人気作家に躍り出た人だ。

 縁を結んだ一つは「千曲小唄」にある。作詞が上田市出身の医師で文人の正木不如丘(ふじょきゅう)。彼が夢二と親しく、その推薦で夢二は招かれ、戸倉温泉の笹屋ホテルで千曲小唄の歌詞入り絵はがきを描く。大正橋の絵はそれを原画にしている。


 29(昭和4)年のことだ。画家として詩人として一時代を画した夢二人気も、既に衰えを隠せなかった。加えて4年後、結核に侵されてしまう。重症だった。

 八ケ岳の麓、正木医師が院長を務める富士見高原療養所で息を引き取った時、見守ったのは看護師ら病院の関係者だけである。

 34(昭和9)年9月1日、数えの51歳。多くの女性と恋路を重ねた果ての寂しい最期だった。


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 だが、感動的な物語はこの後に展開する。その年の10月半ば過ぎ、一人の中年婦人が「どんな手伝いでもしたい」と療養所にやってきた。

 その言葉通り、誰もが嫌がる患者の寝具の洗濯や仕立て直しなどの雑役に励む。やがて3カ月後、名も明かすこともなく立ち去った。

 その人こそかつての夢二の妻、そして夢二式美人画のモデルとして尽くした岸たまきであった。まるで雲間から月明かりが差し込んだかのように、ホッと心和むいい話ではないだろうか。


 〔千曲小唄〕大正後半から昭和初期にはやった新民謡の一つ。戸倉の青年たちの働き掛けでできた。作曲は中野出身の中山晋平。湯の町のPRに一役買っている。

(2012年7月21日号掲載)

 
愛と感動の信濃路詩紀行