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14 ガダルカナル 〜左腕貫通の重傷負い ジャングルに不時着〜

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 我々ミッドウェー海戦の生き残り搭乗員は、敗戦の事実を隠ぺいするために、鹿児島の笠ノ原飛行場で軟禁状態におかれ、退屈な日々を過ごしていました。


 このころ、ミッドウェー海戦で惨敗した日本海軍は、アメリカ軍と連合軍のオーストラリアの遮断を目的として1942(昭和17)年7月、南太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島に飛行場を建設しました。


 ところが、上空から観察して完成と同時にいただこうと狙っていたアメリカ軍に、8月7日早朝の奇襲攻撃で占領されてしまいました。完全に制空権を握られた中での作戦は思うように運ばず、戦況は泥沼の様相となりました。 


 妻の一途な姿に感動

 戦局の急迫で我々は1カ月に及ぶ缶詰め状態から解放され、空母「飛鷹(ひよう)」と「隼鷹」に出撃が命じられました。一日も早く戦力を整えるため、群馬県の中島飛行機に赴き、零戦の受領テスト飛行を命ぜられ即出発することになりました。


 その時、今度の出撃が最期になるかもしれないと感じた私は、妻子にひと目だけ会っておこうと長野へ電報を打ちました。農家の長男の嫁として苦労していた妻は、野良着のまま必死の思いで7時間汽車に揺られ上野駅へ来てくれました。子どもを背負い、両手いっぱいに荷物を抱えた妻の一途な姿を見た時、「美しいなあ」と心底感動しました。


 わずか3、4時間過ごしただけですが、これで何の悔いもなく出動できると思いましたね。


 42年10月17日、私は第3小隊長として零戦に乗り、ガダルカナル島を目指し「飛鷹」から飛び立ちました。がっちり編隊を組んだ爆撃隊が、いよいよ進路を定めたころ、視界に断雲が入り、何となく不吉に感じました。


 断雲の真下に差しかかった時、雲の陰に潜んでいた10数機のグラマンが一斉に急降下してきました。「しまった」と思った時はすでに遅く、味方は続々と火だるまに。私も敵機と刺し違える覚悟で「ヘナチョコに負けてたまるか」と下腹に力を入れ、照準を定め、撃ちながら突進して行きました。


 双方の曵光弾が交差した瞬間、左腕にガーンとハンマーで殴られたような激痛が走り、飛び散った血で風防が真っ赤に染まりました。見ると腕に卵くらいの穴が開き、血が吹き出ていました。急いで両足で操縦桿を挟み、右手と口でゴムの止血帯を巻き、直ちに右手で操縦桿を握り直しました。


 エンジンも被弾したようで、突然、座席の中にガソリンの匂いが入ってきました。「危ない!」ととっさにスイッチを切りました。ふと見ると、白煙を引きながら敵機が堕ちて行くのが見えました。これ以上は飛べないとジャングルに突っ込み、運よくヤシの木に左翼が激突し不時着。体に墜落同然の強い衝撃を受けて、意識を失いました。気が付くと機体は逆さまで宙づりになり、私はガソリンをかぶっていて息苦しく、死に物狂いで脱出しました。


 生死の境さまよう

 その時、やはり不時着していた味方の搭乗員と出会い、一緒にジャングルの中をさまよい歩きました。数日がかりで海軍の特殊潜航艇基地にたどり着き、治療をしてもらいました。しかし傷は悪化し、マラリア、デング熱も併発し、高熱で記憶を失い、意識が戻ったのは1週間後、トラック島の第4海軍病院でした。


 「ガ島」の戦いで補給路を断たれた日本軍は深刻な食糧不足となり、6000人の戦死者と、言語を絶する飢餓で1万5000人の餓死者を出し、密林の悲劇は「餓島」と称されました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年7月28日号掲載)


=写真=商船を航空母艦に改造した「飛鷹」


 
原田要さん