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140 専福寺 〜英霊の憤怒を語る忠魂碑〜

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 「そこの年長さん、お誕生会は楽しみだよね...」。専福寺(せんぷくじ)の峰川堯見住職(院主)は法事で、親に抱かれた園児を引き合いにお説教をする。「でも、小学校に行き、大人になると、お誕生会がなくなるのは、どうしてかな?」 これは小学生と大人への問い掛けだ。いぶかしげな目が集まったところで「生老病死」のテーマで畳み掛ける。


 芹田小学校から東へ数百メートルの専福寺は、檀家600軒ほどの典型的な"在郷"のお寺だ。 


 「大人になると年を取るのが苦しみになるからです。ママは目尻に皺ができ、パパはメタボで禿げてくる。おばあちゃんとおじいちゃんは足や腰が痛くなる。お誕生日は嫌な日になります。だから、大人はお誕生会がないのです」


 「なるほどなぁ...」。皆が納得、実感する。生きることは、老いること、そして誰でも病気は免れない。そして誰もが迎える死...。


 「生きることは苦の連続。年を経れば苦は募る。生老病死は皆が免れません。安穏に彼岸に行くには、阿弥陀仏に全てを委ねること、南無阿弥陀仏と唱えることです」


 この専福寺には、生老病死を"享受"できなかった数百人の氏名を刻んだ大きな石碑が本堂手前右脇の最上の位置に立つ。「日露戦役忠魂碑」だ=写真上。戊申戦争から、日清・日露、日中戦争、太平洋戦争までの檀家の戦没者氏名を刻してある。


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 忠魂碑は日清・日露戦争後、市町村単位で盛んに建立された。太平洋戦争後、米国の占領政策の政教分離で撤去を命じられ、1952(昭和27)年の独立で復活再建・新設された-というのが一般的な例だが、専福寺の場合は、芹田小学校(旧・励精学校)の創立地であったという因縁だ。


 1872(明治5)年の学制発布のころ、暗殺された義兄・佐久間象山の妻で自分の妹お順を松代に訪ねた勝海舟は地元の教育事情を視察。専福寺にあった励精学校での教師・生徒の授業態度に感銘を受け、「励精学校」の額を庫裏で書いた。この書は今も芹田小学校の校長室に掲げられている=写真下。


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 敗戦直後の「忠魂碑」撤去命令の時、後で掘り出しやすいようにと学校の池に沈め、日本独立の時も、公立学校での忠魂碑再建に消極的な行政に抗して、芹田小学校創立地の寺に移転・再建したのは、寺・檀家・総代らの見識でもあった。


 忠魂碑は決して時代錯誤の遺物ではない。生老病死を全うできなかった英霊の憤怒と遺族の悲しみを語る歴史的石文なのだ。


 
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