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15 象山の寓居 〜愛妾の居住頼み断られ

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 京都市木屋町の中華料理店従業員・中山義也さん(47)は、幕末・維新に京都で憂国の血を流した先賢の歴史を調査研究している。


 中山さんから入手した資料『京都史蹟めぐり』は、燃料商の寺井四郎さん(故人)が1934(昭和9)年に発行した。寺井さんは本業よりも郷土史や幕末史に興味を抱いて調査し、造詣が深い。この中に象山の「煙雨楼」=写真左、右は跡に立つ碑=に関して要旨、次のような記述がある。


 上洛した象山は最初、六角烏丸東入南側の定宿「もちや」に投宿。愛妾の菊を連れて来たため、宿屋住居もなしかねたので、一日、かねて江戸で馴染みだった梁川星巌(尊王論者で、漢詩人)の未亡人、紅蘭女史の宅を訪れて曰く。


 「往年、江戸に居住の際は、お菊が何かと世話になりました。今度また、菊を連れて来ました故、何とぞ昔の如く御交際を願いたく、ついては誠に勝手がましい申状ではあるが、貴女の許に同居願いたい」と、象山は百金の包みを差し出した。


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 紅蘭は象山の無礼な仕打ちが癪に障って、即座にその包みを押し返し、「妾(わらわ)は夫星巌にも訣れ、昔に勝る貧窮なれど、妄りに他人の金銀を受けることならず、また、御愛妾をお預かりすることは、老体の力、到底及び申さず、お断り申す。ついでなれど、先生に申します。先生には洋風を好まれ、日々西洋馬具を付けた馬に召さると承る。近頃、京都には攘夷の論盛んにして浪士も多数参り居れば、充分の御注意ならぬと不測の変事が起こるかもしれぬ」と戒めた。


 しかし、象山は毫しも意に介さぬらしく「注意のほど忝なし。されど、我志は漸く世に行われんとしてきた故、人の噂などは決して気にかけてくださるな」と答えて辞した。


 その後、象山は身元を証明する「真田信濃守家来佐久間修理」の名札を懐中にして暗殺された。結局、前回取り上げた「煙雨楼」が最後の住居となった。

 
象山余聞