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京都16 融(とおる)〜光源氏のモデル

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 〈あらすじ〉

 旅僧が六条河原院の跡地で休んでいるところへ、潮くみ桶を担いだ老人がやってくる。海辺でもないので不審に思い尋ねると、「源融が陸奥の千賀の塩竈を移し、塩を焼いた場所だ」と答える。老人は付近の景色を教えたり、融のことを語ったりした後、姿を消す。

 旅僧がまどろんでいると、老人は若い貴公子の融大臣となって現れる。昔をしのんで華やかに舞い、やがて月の都へと消えて行く。

    

 融は嵯峨天皇の12男。源氏の姓を受け、臣籍に下ったため皇位は継承できなかった。が、左大臣になって「河原左大臣」と呼ばれ、紫式部の源氏物語の「光源氏」のモデルともいわれている。


 六条河原にあった邸宅は、平安京の中でも一、二を争う豪邸で、平等院の鳳凰堂や、嵯峨の釈迦堂(清凉寺)は融の別荘だった。河原院には謡曲のように、邸内に塩竈の景観をまねた庭を造り、池に難波津(大阪)から海水を運ばせて塩を焼き、毎日のように宴を開いて豪華な暮らしを楽しんだ。


 このことは伊勢物語などの古典に記載されている。融の死後は廃墟となり、それを嘆いた紀貫之の和歌が古今和歌集に載っている。


 東本願寺に河原院を模型とした庭園がある。名付けて「渉成園」。徳川家光から寄贈された土地に、詩仙堂を開いた石川丈山が作庭したと伝えられる。


 現在の庭は蛤御門の変(1864年)で炎上後に再建されたものだが、国の名勝に指定されているだけあって立派だ。約4850平方メートル(1万6000坪)の敷地に大小二つの池、数寄屋風の書院や庵室、茶室などが配置されている。池の真ん中に、千賀の籬(まがき)の島があり、傍に融の供養塔である九重の石塔が建っている。JR京都駅近くに、こんな広大な庭園が残っていることに驚く。


 ただし、渉成園は六条河原院があった場所ではない。本当の跡地は、ここから北に十数分歩くと上徳寺と本覚寺という二つの寺が向かい合ってある、河原院の塩竈があったと伝えられる場所で、町名もずばり本塩竈町として残っている。


 さらに近くの五条大橋の南端には河原院邸の跡地がある。鴨川と並行して流れる高瀬川べりにエノキの大木がそびえ、その根元に「此付近 源融河原院址」と刻んだ、古びた細長い石塔が立っている。


 栄華を極めた後、廃墟となって鬼がすむと恐れられた。江戸時代には森鴎外の短編『高瀬舟』のように、流罪の囚人を送り出した川のほとりだ。渉成園とは正反対にうら寂しく、不気味ささえ感じられる一角だった。

(2012年4月14日号掲載)


写真=うら寂しい河原院跡



 
謡跡めぐり