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16 暗殺の弁明 〜「池田屋騒動のせいだ」

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 象山を暗殺した河上彦斎たちは、その理由を「池田屋騒動のせいだ」と主張している。彼らの弁明は、京都市の明治維新士志顕彰会が1973(昭和48)年2月に刊行した『河上彦斎』=写真=に載っている。


 美人画が得意の画家・岩田専太郎が彦斎の挿絵を描いた、130ページ余の冊子だ。希覯書(きこうしょ)で、大日本生産党の顧問・鴨田徳一さんからお借りしたが、その中の「斬奸状」には次のようなくだりがある。


 元治元年(1864)6月5日、京都で池田屋の変(新撰組の尊皇攘夷派志士襲撃事件)が起こり、わが肥後勤王党の重鎮、宮部鼎蔵は殉難。この悲報は早打で長州に報ぜられた。


 特に彦斎は(師と仰ぐ)鼎蔵を失った驚きは怒りとなり、直ちに上京。あたかも、佐久間象山が、幕府の密旨を受けて京都に上がり、山階、中川の両宮をはじめ二条、嵯峨の諸公卿に向かって開国論と公武合体論を勧誘し、朝廷の討幕計画をも阻止し、彦根御遷座を企てていることが、彦斎の耳に入った。彦斎は大いに怒り、因州の前田伊右衛門を誘って白昼堂々、三条木屋町で象山を暗殺。彦斎は「斬奸状」を祗園社前に提示し、そのまま行方をくらました。


 象山を斬った後で、彦斎は他人に次のように語ったと伝えられている。

 「自分はこれまで人を斬ることを猶木偶人を斬るように少しも意に留めたことはなかった。が、象山を斬った時だけは、はじめて人を斬る思いがして、思わず総髪が逆立った。これは象山が絶代の豪傑であったことと、それに自分の命脈が既に弱くなってきたしるしに思えてならぬ。もうこれから断然、このような暗殺は、象山をもって最後にしたい」


 なお、本紙「象山余聞」(4)の「斬奸状」には3字が脱落し、□の欠字となっているが、この小冊子にはその部分を「へ」「奸」「逆」と明記してある。

 
象山余聞