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17 河井継之助 〜七二会に「蒼龍窟」の扁額

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 越後・長岡藩の総督(軍隊を全て率いる最上の官)、河井継之助=写真右(長岡市中央図書館所蔵)=は27歳のころ、江戸で象山の門に遊んだ。しかし、師匠の人となりは傲岸不遜を極め、象山の本質を「陋(ろう)」と断じている。陋とは「みにくい」とか「度量が狭い」の意味だ。


 河井は名を秋義、号を「蒼龍窟」という。辞書には龍の住む岩屋で、その窟に至って龍の頷(あご)の下にある珠を取り来たる意味で、大悟するには多くの辛苦を冒す必要があるとの例えだ。河井は戊辰戦争で官軍と戦って会津に落ち延びる途中、42歳で没した。越後では戦国時代の英雄、上杉謙信公以来、不世出の人傑と評されている。


 最近、「蒼龍窟」の扁額=写真左=が七二会笹平の山本博三さん宅の座敷に掲げられているのを見て驚いた。1900(明治33)年生まれの博三さんの父・剛さんが、今から70数年前、西部農学校(現長野西高校中条校)で開催した講演会で講師を務めた清水精一という人に揮毫してもらった。


 象山と継之助は豪傑同士だが、河井が敬服して師事した人物は、備中松山藩の山田方谷で、彼に近侍した。方谷が藩政改革のために行った事業は弟子、継之助の模範となり、徳川幕府の時局対策にも開国進取を主張。富国強兵策を提唱したが、受け入れられるところではなかった。


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 河井は藩内で大義名分を説いたものの、結局、戊辰の役に突入。この際、官軍に東海道方面軍参謀、西郷吉之助(隆盛)のごとき人物がいたら、河井と和平交渉を推進することもできただろう。 


 不幸にも樽俎折衝(武力を用いないで立派な交渉を成すたとえ)に人材を得ず、河井が3万金と自己の首級を差し出し平和解決を購おうとしたが、官軍参謀は拒否。戦争となったのは残念−と漢学者の安岡正篤が『陽明学十講』で書いている。

 
象山余聞