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26 北沢正誠 〜象山のまな弟子 高田で教師

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 佐久間象山を論じるとき、忘れてならないのが松代藩士で門弟の北沢正誠(まさなり)だ。親子ほども年の違う象山に師事した。明治30年代、正誠は新潟県の高田中学(現・上越市の県立高田高校=写真)で教壇に立ち、面白いエピソードを残している。


 更科郡・埴科郡人名辞書によると、正誠は通称・織之助。字は乾堂。幕末、明治の官吏。1840(天保11)年6月1日、江戸溜池の松代藩邸で誕生。江戸時代の政治家、郡奉行の北沢蘭壑(らんがく)の孫-とある。


 64(元治元)年7月11日、京都に滞在中の正誠は象山の遭難を知り、象山の寓居を訪ねて奔走。散逸を防ぐため、著書や遺墨類を勝海舟に託した。


 71年7月の廃藩置県後、正誠は官に仕えて小笠原島島司(島庁の長官)に。1901(明治34)年2月2日、61歳で他界した。


 高田中学には1899年4月25日から1900年10月31日まで勤務した。そのころ同中学には漢学者として知られた江坂香堂もおり、これらの教師を囲む形で高田中学校文芸部があった。


 文芸評論家、歌人の相馬御風(糸魚川市出身)も正誠から漢文の個人教授を受け、童話作家の小川未明も参加し、和歌、俳句、新体詩、漢詩を作っていた。


 象山亡き後、正誠は遺族との交わりを深くしていたが、渡辺健蔵校長が正誠を倫理講師として高田中学に迎えた。あるとき、試験中にもかかわらず、正誠はふらりと教室を出て30分ほど戻って来なかった。生徒は全て満点を取った-との逸話を残した(1973年発行の「県立高田高校百年史」)。


 象山のまな弟子、正誠を渡辺校長は、どんな殺し文句で招聘したのか。頸城平野には戦国時代の雄将、上杉謙信がおり、「謙信公の出身地、高田で教師を」とでも言ったのだろうか。同校は「謙信文庫」といわれる謙信の真筆6通など、上越文化の殿堂に関する資料を数百点所蔵していたが、41(昭和16)年9月29日未明、風速10メートルの南風にあおられ、校舎は灰燼に帰してしまった。原因は付け火。千秋の痛恨事である。

 
象山余聞