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28 象山には耳がない? 〜その名の現れる相貌

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 佐久間象山には耳がない!? 象山の写真=写真=を真正面から見ると、両方の耳が全く見えない。象山の親友で御側絵師の三村晴山が象山に向かって、「耳の見えない人は死後、その名の現れる相貌だ」と評したといわれている。


 褒められた象山は、まんざらでもなかっただろう。象山の容貌、人相は様々な写真や似顔絵で分かっているが、どんな体格だったのか。それを表す資料が松代町の象山記念館にある。


 それによると、身長は5尺7〜8寸(172〜175センチ)。筋骨たくましく、肉付きも豊かで大柄。顔は面長で色は白い方。額は広く、二重まぶたで眼光鋭く人を射るような威厳があった。眼はいささかくぼみ、瞳は大きい。髪は漆黒。髭は長く垂れている。耳は正面からは見えないが、大きい。法名は「清光院仁啓守心居士」。


 象山は、江戸の自邸にいる時は黒羽二重の紋付きに緞子(どんす)の袴のいでたち。外出時は堂々としており、5000石の旗本でもまねができないほどだったという。


 象山の耳が見えるのは横を向いている似顔絵。幕末の上田藩士で絵師の木村培樵が描いた象山の肖像画は、培樵が象山に直接面会して描いたといわれる。


 米国から黒船で来航したぺリーが武器を持った500人の兵隊を連れて「横浜村」(現・横浜市)に上陸したのは1854(嘉永7)年。日本に開国を迫った結果、日本とアメリカは国を開く和親条約と港を開く通商条約を次々と結び、日本は鎖国をやめて国を開くことになった。


 横浜村は開港場となり、100戸ばかりの半農半漁の小さな村は、この時から国際都市横浜となった。


 ペリーが来日した時、幕府は横浜に応対所を開設。松代と小倉の両藩に、その警護を命じた。松代藩の陣屋の前をペリーが通過する際、軍議役として控えていた象山の前に差し掛かると、ペリーは軽く象山に目礼したとのエピソードが残っている(象山神社奉賛維持会の『佐久間象山の生涯』)。

 
象山余聞