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31 呼び出し状 〜上洛の際 門人らを召集

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 「坂城歴史同好会」の会員で会社社長の久保賢祐さん(74)=坂城町=は、佐久間象山が先祖宛てに出した書状=写真=を大切に保存している。象山が幕府からの呼び出しに応じて上洛する際、門人らに対し召集を掛けたものらしい。


 1864年(元治元)年3月17日昼過ぎ、松代を出立した時の「公務日記」が『象山全集』第5巻に載っている。それによると、一行は17人で、日記の執筆者は同行の子息、恪二郎と小松左右輔(松本藩士。後の彰)、花岡敬蔵の3人。公務日記は象山在京中の事跡を知るのに格好の資料だ。


 一行の中に「用役」という顧問クラスで名前が載っている人物が久保重兵衛。賢祐さんの4代前に当たる。


 「昨日御咎、御免 俄上京仰付られ近日、出立致候間、兼て申聞けられ候趣も有之候間、匆々出向けられたく匆々申入候、以上。


 三月八日

     佐久間修理

上平村 重兵衛殿


公邊(辺)より仰せ存ぜられ候儀に候 十五日の頃、出立と存じ候以上」


 この書面から、象山一行は3月15日ころ(実際には17日)、重兵衛もお供して京に向けて出発したことが分かる。


 賢祐さんによると、重兵衛の孫は久保勇雄といい、下諏訪町に居住しており、手紙は転々として第三者の手に渡ったが、ようやく賢祐さんの手に戻った。


 上洛する時、象山の家族、門人は、その出立をすこぶる危ぶんだ。 しかし、象山は毅然として「(幕府の)徴命(お呼び出し)再三に及び豈辞す可けんや。衆等、予を愛する乎、国を愛する乎。もし国を愛するならば、則ち我の京都に行くを止むる勿れ。我豈開港の行はれざるを知らんや。顧ふに国是未だ定まらず、今日に当りて国の長策(優れたはかりごと)を立つるものは吾を措いて誰かある。これが為に一命を殫(な)くするも他日、必ず我説に従ふものあらん」(『京都史蹟めぐり』)と言明。


 家子郎党は涙をのんで京都に送り出したという。

 
象山余聞