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34 象山の女性観 30歳で著した「女訓」に示す

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 「佐久間象山は鼻の下を長くし、多くの女性と交際している。好色だったのでは」。数年前、松代町の真田宝物館に、東京のミッション系スクールの女子高生が訪ねて来て、そう聞いたことがあったという。


 当時、応対した学芸員は「武家社会では特に珍しい風習ではなかった」と説明し、お引き取り願ったとか。潔癖な年頃の女子高生の理解が得られたかどうかは分からないという。


 象山の女性観については、様々な見方がある。

 象山は晩婚で、42歳の時、17歳のお順を正室に迎えたが、その前後に数人の妾を侍らせている。


 象山の女性観を示す資料に1840(天保11)年、30歳の時に著した「女訓」がある。

象山の姪が嫁ぐ際、書き与えたとされ、「女は、たかきもいやしきも、三従(家では父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う)とて」とし、婦女子の家庭における幼時のしつけから、礼儀作法、身だしなみ、稽古、嫁・妻としての舅姑、夫への務め、爪の切り方、化粧に至るまで事細かく記している。


 象山の生きた時代は士農工商の身分制度や武家の身分意識が前提となっているのは当然のこと。象山の儒教的道徳観からすると、妻や妾は、単に世継ぎを得るだけの存在とみている。現代からすると、女性の立場を無視した言い分だ。ただ、それをもって象山を「盛んな漁色家」と評するのは、いかがなものか。


 元長野女子短大の公衆衛生学講師・小出雄彦さん(76)=松代=は昨年5月9日の「エコール・ド・まつしろ・象山講座」の「象山をめぐる女性」の中で、次のように語っている。


 「象山には、召使い名目の側室がいたことは確か。妾の周旋依頼状を諸方に出しているが、それは好色のためではない。正室には子がなく、側室が産んだ子3人は夭逝。このため、自分の優れた遺伝子を残そうとして、多くの女性と交際したのも無理はない。当時は側室を持つことは道徳的にも普通のことで、むしろ"男冥利"と考えられていた時代だった」

 
象山余聞