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48 活文禅師 〜象山ただ一人を相手に〜

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 「御自由にお持ち下さい。岩門(いわかど)大日堂へようこそ」


 上田市郊外の信濃国分寺に近い地域に岩門大日堂がある=写真。そこの郵便受け状の箱に「禅師と象山との出会い」と書いた小冊子が入っている。


 象山(当時の名は啓(ひらき))は17歳の時、松代から馬に乗って師と仰ぐ活文(かつもん)禅師が隠居中の大日堂を訪ね、1年間、勉学に励んだという。


 本尊は大日如来(真言宗の本尊)で、1869(明治2)年に岩門村が奉行に報告した書類には、大日堂の間取りが記されている。仏間、座敷、茶の間、勝手、雪隠(トイレ)...などがあり、活文と啓の二人は「どこの部屋で、語らい、学び、時を過ごしたのか」と、管理する伊藤邦夫さんは書いている。


 小冊子によると、活文は松代藩士・森五十三重喬(いそみしげたか)の次男として1775(安永4)年5月18日に誕生。84(天明4)年、9歳の時に和田村(現長和町)の信定寺(しんじょうじ)で出家。25歳の時、長崎に留学し中国語や詩文、書画、一弦琴を学ぶ。さらに江戸に遊学。35歳の時、信定寺住職に。その後、上田市蒼久保の龍洞院住職となり、50歳で岩門大日堂に隠居し寺子屋を開く。門弟は千余人といわれ、54歳で常田の毘沙門堂に移り、70歳で生涯を閉じた。門下生に象山のほか高井鴻山、山寺常山がいる。


 大日堂は昭和の終わりごろまで岩門の集会所、公民館として使用され、地域活動の拠点だった。現在は春祭りなどで利用されている。


 啓が毘沙門堂に隠居中の活文禅師を訪ねると、禅師は他の弟子たちを皆家に帰し、啓ただ一人を相手に教え、決して他の者を近づけなかった。啓の才能を見込んで自分の知るところを教えていたといわれる。ある時、空模様がにわかに変わり、大雨が降り始めた。禅師は「一泊したらどうか」と勧めた。


 ところが、孝行者の啓は「ご厚意はありがたい。だが、母に帰宅する約束をしてきましたから」と言って、雨の中を帰って行くのを禅師は見送った。上小地方の伝説と民話を集めた『上田・小県文化大事典』に載っている。