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50 18歳で作った漢詩 〜活文禅師に送る〜

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 象山が作り、活文禅師に送った漢詩が小布施町の旧家に残っている。幕末の慈善家で学者・高井鴻山の縁続きの家で、象山と鴻山遺墨を拝見したり、面白い話も仕入れてきた。


 漢詩の所蔵者は同町の元郵便局長・教育委員長の故市村厚さん。啓(ひらき=象山)が活文禅師を岩門大日堂に送った時の五言絶句だ=写真。村上博優著『活文禅師詩偈書牘(しけいしょどく)序文集』(龍洞院保存会編)に載っている。


 厚さんの夫人、正子さん(87)は、漢詩を見て「初めて目にする」という。


 市村家は町の中心部に位置し、昔は塩やろうそくの販売も手掛けた。請負制度だった郵便事業を何代も続けている家柄。高井鴻山の資料類も保存し、その量は段ボール箱10個分に達している。 

 啓が18歳のころ作った五言絶句の漢詩は次のような内容だ。


 (起)臨別師引錫(しゃく)

 (承)山路(さんじ)白雲深

 (転)他日嵒門下

 (結)相尋聞法音

 右奉送 活紋禅師

    佐久間啓九拝


 書き下し文は-

 別れに臨んで師の錫(錫杖)を引く

 山路白雲深し

 他日、岩門の下

 相尋ねて法音を聞かん


 錫杖は僧侶・修験者が持つつえ。法音は、著者は仏教の読経の声ではなく、清国語の華音による活文の声そのものの意と解釈。


 1828(文政11)年秋の作。活文が啓を訪ね、姥捨山に観月を楽しみ、帰るに当たって漢詩を作り、活文を岩門に送っている。 


 ところで、象山は幕府の呼び出しにより、16人を引き連れて64(元治元)年3月17日、松代から京都に出立した。この時、象山が「同行しよう」と固く約束した相手が高井鴻山だった。


 待ちに待った当日、鴻山は松代に向かったが、象山一行は既に出発した後。「鴻山は象山に置いてけぼりにされ、失意の果てに以後、妖怪変化の絵ばかりを描いていた」と正子さんは話している。

 象山はサムライではない鴻山を伴い、災難に遭わせでもしたら申し訳ない-との思いがあったのだろう。

(2012年7月28日号掲載)

 
象山余聞