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東北5県03 摂待(せったい)〜身近に供養塔

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 〈あらすじ〉 兄の源頼朝に追われた義経の一行12人は、山伏姿となって奥州へ落ち延びる。その途中、山伏を接待している館があり、ここで佐藤継信・忠信兄弟の母である老尼の出迎えを受ける。一行ははじめ身分を明かさなかったが、老尼は次々と家臣の名前を当て、孫の鶴若(継信の子息)も義経を見破って、うちとける。老尼は息子たちの最期の様子を尋ね、弁慶は屋島の合戦で継信が義経の身代わりで戦死したこと、弟の忠信がその仇を討ったことなどを語る。やがて夜が明け、供をしたいとせがむ鶴若をなだめ、涙ながら別れてゆく。


 平家物語や義経記などによると、牛若丸の源義経が鞍馬山から脱出して、奥州の藤原秀衡の元に身を寄せた。そして兄・頼朝と平家討伐で旗揚げした時に、秀衡は重臣の佐藤基治の子息、継信(つぎのぶ)と忠信(ただのぶ)兄弟を義経に側近として遣わした。兄弟は目覚ましい活躍をしたが、継信は屋島の合戦で義経の楯となって平家に弓で射られた。忠信もまた、義経が頼朝と不和となり、吉野山に逃避行した際、義経に扮して僧兵と戦い、一行を落ち延びさせた。その後、京に潜み、発見されて自害した。謡曲では、老尼がそうした息子の死亡を聞いていたことを前提に、物語が始まる。


 謡曲の舞台となる佐藤の館跡は、実は東北に二つある。一つは兄弟の生母が生涯を閉じたという山形県米沢市の常信庵。もう一つは佐藤基治の大鳥城跡近くにある福島市飯坂町平野の医王寺。佐藤一族の菩提寺だ。双方とも「本物」と主張しているが、謡曲本では場所を「岩代国信夫郡平野」としていることから、謡跡保存会では後者の医王寺境内に駒札を立てた。


 医王寺へはJR福島駅から飯坂温泉行きの電車で医王寺前駅で下車。車では東北自動車道の福島飯坂ICで下りる。大鳥城跡は飯坂温泉街を見下ろす位置にあり、川を隔てた対岸に医王寺がある。医王寺の山門をくぐるとすぐ本堂で、左側にはうっそうとした杉並木の参道が続く。いかにも古刹を思わせる。参道をしばらく歩くと、弘法大師が建てたという薬師堂があり、その裏に佐藤一族の墓がある。中でひときわ目立つのは継信・忠信兄弟の墓だ。屋根付きで、大きな墓石が二つ立ち並んでいる。義経が奥州へ下る途中に立ち寄り、遺髪を埋めて供養し、建立したと伝えられている。


 謡曲では気丈に一行を接待した母だが、やはりその嘆きは大きく、いくつかのエピソードも残っている。医王寺の基治と乙和(老尼)夫妻の墓のそばに、ツバキの大木がそびえている。この木に母の悲しみが乗り移ったのか、いつしか花が咲かなくなったといい、土地の人は「乙和の椿」と呼ぶようになった。また2人の息子の嫁が母を慰めるため武将の姿に変装し、「母上ただ今、無事に帰りました」と言って元気づけた。その等身大のよろいを着けた人形が本堂内に安置されている。宮城県白石市の田村神社境内の甲冑堂にも同様な人形がある。


 善光寺の山門をくぐって左側に、母が建てた佐藤兄弟の供養塔があるのは広く知られている。母がかねて善光寺を信仰していたこともある。が、岩代の信夫の里から、はるばる信濃の国まで供養にやってきたのは、何よりも母の深い愛情と悲しみを物語るものだろう。 

 (清水昭次郎・稲葉日詰)

(2006年10月7日号掲載)


写真=善光寺の供養塔



 
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