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東北5県04 錦戸(にしきど)〜義経終焉の曲

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 〈あらすじ〉 義経は頼朝の追討から逃れて、奥州の藤原秀衡の保護を受けていた。が、秀衡が死んだ後、その長男・錦戸太郎は2男・泰衡とともに、頼朝の脅しと誘いに乗って義経を討とうと企て、3男・泉三郎を説得するため館を訪れる。ところが、三郎は父の遺言を固く守って反対し、口論の末、錦戸は兄弟の縁を切って帰る。三郎がこのことを妻に語っていると、錦戸と泰衡が早くも攻め寄せてきた。これを知った妻は夫が潔く戦えるようにと腰刀で自害する。三郎は奮戦し、力尽きて持佛堂に入って妻の後を追って腹を切った。三郎の武士としての忠節と、けなげな妻とをたたえた謡曲。


 「義経記」などによると、兄の源頼朝に追われた義経は、奥州の藤原秀衡を頼って平泉に入った。この間の逃避行の経緯は謡曲でも「船弁慶」「吉野静」「忠信」「安宅」「摂待」などに謡われている。今回の「錦戸」は、義経・弁慶は登場しないが、それらを締めくくる「義経の終焉の曲」ともいえる。


 秀衡には3人の息子がいた。長男・国衡は側室の子で、西木戸に居宅を構えていたことから西木戸(錦戸)太郎と呼ばれた。2男・泰衡は正室の子のため、藤原4代目として跡を継いだ。3男・忠衡は、泰衡と同腹の弟で、泉ケ城に住んでいたことから泉三郎と呼ばれた。父の秀衡は泰衡を一応、後継者にしたものの、人物的に劣り、兄弟の不和も心配して、義経を当主とし、3兄弟が協力して支えていくことを誓約させていた。ところが秀衡が死ぬと、兄2人は父を裏切って頼朝に加担し、最後まで反対する三郎を抹殺した。謡曲「錦戸」はここで終わっている。


 兄2人はこの後、義経主従を襲撃して皆殺しにする。が、頼朝は褒めるどころか、4カ月後に大軍を送って骨抜きとなった藤原一族を一掃。こうして平安後期およそ100年間、藤原三代が続いた平泉の黄金文化が滅亡した。


 謡曲「錦戸」の史跡は、岩手県の平泉一帯だ。その中心の中尊寺へはJR東北本線の平泉駅からバスで数分。高速道では平泉前沢ICでおりる。表参道の月見坂の入り口に弁慶の墓がある。弁慶らしいずんぐりした丸い石塔だ。坂を上ると左右に弁慶堂、本堂、讃衡蔵(さんこうぞう)など由緒ある建物が立ち並び、奥まった所に国宝の金色堂がある。さらに奥に進むと重要文化財で古くからの神事能を伝える能楽堂があった。訪れた時は平日の夕暮れ。それでも社会科見学の小学生や台湾からの観光客たちでにぎわっていた。


 中尊寺の東に高館(たかだち)と呼ばれる高台があり、上り詰めると江戸時代に伊達藩主が建てた義経(ぎけい)堂がある。義経が襲われて自刃した場所で、堂内によろいをまとった義経像が祭ってある。高館からの眺望は素晴らしく、ゆったりと流れる北上川、上流で泉ケ城跡を迂回する衣川、平泉の田園風景が広がっている。芭蕉もここに立ち、人の世の興亡に無常を感じて「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と、著名な句を詠んだ。


 北上川は氾濫と蛇行を繰り返し、そのたびに貴重な文化施設をのんできた。金色堂は幸い山の中にあったので無事だった。バスの車窓から、あちこちで今も遺跡を発掘している風景が見られ、平泉の「夢の跡」は、想像以上に壮大だったと推察されている。


 3兄弟が協力して義経を盛り立てていたら、どうなったか。あるいは鎌倉幕府から始まった武家政治は実現せず、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。


 (清水昭次郎・稲葉日詰)

(2006年10月14日号掲載)


写真=神事能を伝える能楽堂前で


 
謡跡めぐり