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53 小野田寛郎さんを考える1

 あらゆるものが風化し、忘れ去られてゆく。忘れられては困るものまでが消えてゆく。すべてがそういう宿命を背負って、歳月が過ぎ去ってゆく。


 その上、そのことをさえ知らない、そのことを知ろうともしない世代が増えてゆく。例えば太平洋戦争があったことも、広島・長崎に原爆が投下されたことも、沖縄が戦場化し、あの狭い土地に3500万発もの砲弾が撃ち込まれたことも。そうして雪舟の「山水長巻」のごとく、大観の「生々流転」のごとく、世の相(すがた)が変わっていく。


大日本帝国軍人としての小野田寛郎

 「小野田寛郎(ひろお)」という名を聞いただけで、即座にあの太平洋戦時から戦後にかけての受難の時代に立ち返り、そして1974(昭和49)年3月12日、日本の敗戦を知らずして、実に29年3カ月ぶりにフィリピンの密林から故国の土を踏んだという大事)に、思いが及ぶのは、いかほどの人たちであろうか。


 昭和30年代から-それは日本が歴史上、例を見ない短年月の間に、よくも悪くも生活のあらゆる分野で体質的に変貌した時代であり、日本史年表に大書されねばならぬものとなった-始まった経済成長に酔い痴れ、太平逸楽に漬かりきり、精神の弛緩に溺れ、十年一日曲がり角に来ても気付かず、腐臭さえも漂うという世相の中で...。


 いま、小野田寛郎、その人は陸軍少尉、大日本帝国軍人として、さらに言えば皇国史観によって育てられ、醜(しこ)の御楯(みたて)(天皇の楯となって外敵を防ぐ防人(さきもり)が、自身を卑下していう語)として、上官の命令は即ち天皇の命令であり、命じられた任務を途中で放棄することはできない、任務解除の命令があるまで戦い続け、30年潜伏...新聞が「現役の軍人が帰還」と大見出しで報ずるなか、小野田さんは銃を持ち、戦闘帽をかぶり、ボロボロの服装で直立不動、挙手の敬礼をもって立ち現れた。時に52歳であった。


   時代の証言者として

 私は小野田寛郎さんを昭和の戦前、戦中、戦後を生き抜いてきた時代の証言者として、最もふさわしい一人と思っている。とりわけ74年3月12日の帰還後の生き方については、ただただ目を瞠(みはら)され、心服というほかはないのである。90歳になられてなお矍鑠(かくしゃく)、美しい晩年を生ききっているのだ。


 帰国当初、小野田さんについてこんな声も聞かれた。いずれも当時の国情をよく知っておられる方々の発言だ。


・あのいまわしい戦争を思い出させて嫌だという人もおられようが、小野田さんの言動は老人世代に大きな励みとなっている。


・新聞に載った小野田さんの挙手の礼の姿勢は毅然としていて立派だ。だが毅然としていればいるほど、やりきれないものを感じる。


・小野田さんの振る舞いが立派なほど、見る人のこころに悲しさを催させてしまう。努力して振る舞っているのでなく、ごく自然にああなってしまうのでしょうが、それでもやりきれないのです。


・美意識やカッコよさで30年もの間、山にいられません。


・そういう人生もあったのだ。わたしは小野田さんに会ったら平伏するしかありません。


・本当に私は頂けるものなら、小野田さんの爪の垢(あか)を煎じて飲みたいと思っています。


・戦跡巡礼をしたいと思っている。ルバング島へもぜひ。小野田さんがされたというように、岩肌にもたれてそこで一夜を送ってみたい。感傷に過ぎましょうか。小野田さんを風化させてはならない。


・羽田でタラップを降り立った小野田さんの手に、いつの間にか集まってきた人たちから名刺の束が...その都度、律儀な小野田さんは頭を下げる。年老いたご両親が立ちつくして、すぐそこに待っておられるというのに、なんであの人(政治家たち)が真っ先にあいさつしなければならないのか。〈つづく〉

(2012年7月7日号掲載)

 
美しい晩年