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54 小野田寛郎さんを考える2

 小野田寛郎さんに注目し、関心を持ち続け、資料を蒐集しながらつくづく感じたことは、小野田さんほど波乱なそして稀有な生涯を送って、いや、送りつつある人はいないということだ。驚異と敬服をはるかに超えた存在だ。そして、2012(平成24)年には90歳になられたのだという。


 その52歳になって故国の土を踏むまでの前半は、破格の衝撃であり、後半のブラジルでの牧場開拓の苦闘と、福島県に「小野田自然塾」を開校して、子どもたちに自然との共生を教えているというのは、深い感銘というほかはないのである。


 小野田寛郎略年譜

・1922(大正11)年3月9日 和歌山県亀川村(現海南市)に生まれる。父種次郎、母タマヱ、7人きょうだいの四男。

・旧制中学を卒業して商社に就職し、中国勤務。

・42(昭和17)年 現役兵として大陸へ。

・43年 甲種幹部候補生として、久留米市の陸軍予備士官学校に入学。

・44年 選ばれて東京の日本陸軍情報工作員の養成機関だった陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の訓練を受ける。

・同年12月 陸軍少尉として、フィリピンのルバング島防衛の任務に就く。

・45年 敗戦後、投降せず山中に潜伏する。政府が何回かにわたって捜索したが発見(救出)されず。

・47年「45年9月1日、ルバング島で戦死」と死亡が宣告される。

・50年7月 仲間の投降で小野田さんの生存が確認される。51年12月、死亡が取り消される。

・54年 3人だけとなった同僚の一人、島田庄一伍長がフィリピン軍によって射殺される。

・59年 12月に2回目の大捜索で見つからなかったため、「54年5月8日死亡」と再び死亡が宣告される。故郷の法輪寺に「昭和二十九年五月八日比国ルバング島ニテ戦死 三十二歳」と刻まれた墓が建てられた。

・72年10月 2人だけとなった同僚の一人、小塚金七一等兵がフィリピン国警軍によって射殺され、小野田さん一人となる。この間、老齢の父・種次郎がルバング島に赴き、山(寛郎)に向かって何度か呼び掛けたり、「寛郎よ、兄弟が...」のアドバルーンを揚げたり、様々な救出方法が試みられたが、後日、小野田さんはこう語っている。


 「軍の命令によってここ(ルバング島)へ来ている。任務の遂行以外には何事もありません。...そうであります。軍(上官)からの命令がない限り、どんなことがあっても山を下ることはできません」。


 そして、この日本の救出作戦は、アメリカ軍の策謀ではないかという疑念も。


・74年3月9日 ルバング島のワカヤマポイント付近で、元上官・谷口義美少佐(63)と新聞記者・鈴木紀夫さん(24)が張ったテントに姿を現す。谷口さんは命令書を下達して帰国を促す。2人は小野田さんと一緒に同夜を過ごし、一晩中語り明かす。

・翌10日午前11時20分 実兄敏郎さんらが小野田さんと会う。同日午後3時、ジャングルを出て下山。44年12月防衛の任に就いて以来の救出。

・11日朝8時半 比国を発(た)つに当たって小塚金七さんの墓参。左腰に山刀、左手に白布を巻いた軍刀と軍人のいでたちで慰霊柱を見上げて、一直線に丘に登る。嗚咽(おえつ)をもらしながら線香をあげ、土を掘ってろうそくを立て、戦友との別れを惜しむ。

・同日午後4時29分 日航機で羽田着。29年3カ月ぶりで母国の土を踏む。ひたすらこの日を信じ陰膳を欠かさず待ち続けた父・種次郎(86)、母・タマヱ(88)と感激の再会。父の言葉「(息子の手を握り締め)よく帰ってきた。よかったのう。つらかったろう」と言うのがやっと。母の言葉「(弟の滋郎(49)さんに抱きかかえられ、車椅子の前に立ったタマヱさんが息子の手を深く引き寄せて)寛郎。よう生きて帰ってくれました。つらかったのう。よう頑張った。長い間、ご苦労さんでした。...あなたは偉い」老母の情がセキを切ってあふれた。


 小野田さんは出迎えたかつての同僚の島田庄一伍長、小塚金七一等兵の遺族と遺影に向かって直立したあと「お気の毒なことをしてしまって、何とも申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げた。〈つづく〉

(2012年7月21日号掲載)

 
美しい晩年