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15 飛行教官 〜けがの後遺症続く 特攻隊員らを訓練〜

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 私の意識が戻ったトラック島(現チューク諸島)は当時、日本の統治圏でしたから、日本から看護婦さんも派遣されていました。「兵隊さん、ここは第4海軍病院ですから、心配しないでゆっくり寝ていなさい」と。私は「ああ、また命拾いしたなぁ」と思いました。


 1942(昭和17)年11月16日、氷川丸という病院船の指揮官の任務を与えられ、トラック島を後にしました。まだ半病人状態で、満足な指揮はできませんでしたが、栄養失調の兵隊たちに、食物を口に入れないよう指示しました。


 しかし飢えた人ほど食べたがり、毎日のように死者が続出。最初は日章旗や白布に包んで錨鎖を付けて水葬しましたが、次第に重しだけで水葬しました。悲惨な光景を繰り返しながら、1週間後にやっと呉軍港に到着。極度に衰弱した私は、担架に乗せられ海軍病院へ。


 軽快退院を願い出る

 左腕の傷が回復してきた私は戦局を考え、前戦に復帰すべく軽快退院を願い出て翌年1月20日、茨城県の霞ケ浦航空隊に着任しました。だが後遺症で体調が戻らず、入退院を繰り返していました。ガ島の不時着時に胸を強打して胸膜が癒着しており、肺が苦しくてまともに歩けない状態でした。それでも零戦が3機あり、古参搭乗員がいなかったので、教官として後ろに乗って教えていました。


 このころ、私は後に「特攻隊第1号」と呼ばれた関行男中尉の教官を、かかりきりで務めました。「アクロバット飛行」や「編隊飛行」など基本的なことから、実用訓練では射撃、空戦、母艦に降りるための定着など、すべての訓練に同乗しました。関さんは研究熱心で、海軍兵学校出身というような高ぶった素振りは決して出さず、階級では2つ下の準士官の私に、教官としての敬意を払ってくれ、立派な人物でした。


 第1神風特別攻撃隊は、本居宣長の古歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」から命名された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」で、後に「菊水隊」が編入されました。


 関さんはレイテ沖海戦で敷島隊隊長として指揮しましたが、44(昭和19)年10月25日、自らも250キロ爆弾を抱いて愛機とともに米艦艇に激突し散華されました。母親一人に育てられ、しかも結婚したばかりの23歳でしたから、立派な方から先に亡くなって惜しいなと思いました。死後は「軍神」としてたたえられ、軍国主義の宣伝材料として使われましたが、敗戦後は一転して、日陰の存在となってしまい、とても気の毒でした。


 予科練少年兵も指導

 44年の終わりごろになると、台湾も米軍の制空下となり、私は予科練の少年兵たちを大型グライダーのパイロットとして訓練する教官として、茨城県の石岡にある民間の高等グライダー学校へ予科練乙10期生を連れて行きました。


 戦況の悪化で募集された予科練生は岩国、三重、鹿児島などの海軍航空隊19カ所に集められ訓練を受けました。戦意高揚のために制作された映画『決戦の大空へ』の主題歌「若鷲の歌」は、当時の少年たちの大空への憧れをかき立てました。


 15・16歳の訓練生は血気盛んで「早く戦場へやってくれ」と、夜になると私の部屋へやって来ましたが、台湾へ出撃したら戻れないことがわかっていましたから、「まだ早い、まだ早い」とはやる気持ちを抑えていました。当時まだグライダー自体が実戦配備の段階でなく、若いパイロットを一人も戦場に送り出さずに済みました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年8月4日号掲載)


=写真=霞ケ浦航空隊の教官として

 
原田要さん