片しきの とふのすがごも さえ侘びて 霜こそむすべ 夢は結ばず 宗良親王
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どんな意味の込められた歌なのか、これだけではすぐには理解がしにくい。

けれども、一首が詠まれたいきさつを知るにつけ、しみじみと切なく身に迫るものを感じる。一人の人間の胸中深く宿る哀愁であり、やるせない心情である。
「片しき」とは、衣の片袖だけを敷くこと。つまり、独りで寝る寂しさを象徴する。「とふのすがごも」は漢字で「十編の菅薦」と書く。編み目の粗いムシロのことだ。
また次の「さえ侘びて」には、寒さも一段と厳しく、切ない状況が表れ出ている。
つまりは、こういうふうに解釈できる。
独りで目の粗いムシロに寝ていると、寒々として侘びしい。霜が降りることはあっても、穏やかに眠れる夜は訪れてくれませんよ。
この歌には「信濃国にすみ侍りしに...」で始まる前書きが付いている。
信濃の国に住んでいる折、都とは違って寒さも耐え難いでしょうに、どうなさっていますか--との問い合わせがあった。そこで、歌を詠んでこたえた、という趣旨である。
作者の宗良親王は後醍醐天皇の第8皇子とされ、「むねよししんのう」とも呼ばれる。
鎌倉時代から室町時代へ、激しく動いた14世紀のことである。朝廷そのものが京都の北朝と奈良吉野を拠点とする南朝に割れ、相争う南北朝時代の動乱さなかだった。

武家に牛耳られた政治を再び公家中心に奪い返したい--。父・後醍醐天皇の執念に動かされ、その子息の一人として宗良親王は、各地の南朝勢を率い、あちこち転戦することになる。
しかし、形勢不利を覆せないまま信濃国、今の下伊那郡大鹿村大河原にこもった。1344(興国5)年、34歳の時である。以降30年余りにわたり、ここを根城に活動していく。
天竜川の支流、小渋川沿いにさかのぼり、大河原を訪れた日は雨だった。途中、大鹿村の中心部を抜け、さらに上流へと進む。両側から山が迫り、ぐっと奥まった所が大河原だ。
眼前にこんもりとした木立が見える。この地方一帯を支配下に置く豪族、香坂高宗が構えた大河原城の跡だ。その後押しがあればこそ、伊那谷の奥深く、南朝方のよりどころにできたのだろう。
それまで周囲を隠していた霧が動くと、木立の背後に屏風さながらにそびえる円錐形の山が姿を見せた。標高2023メートルの鳥倉山だ。
後方をしっかり山がかためている。近くを流れる小渋川の断崖は深い。穏やかな谷あいの集落だけれども、当時の守りは相当に堅かったのだと想像させる。
それにしても都は遠い。武人であると同時に歌人の宗良親王は、「片しきの...」をはじめ多くの歌に、そこはかとなく悲劇性をにじませた。
立ち去り際に振り返れば、霧の中に城跡の森がひときわ緑濃く浮かび上がっていた。
〔南北朝時代〕京都で足利幕府が支える北朝と、京都を逃れた後醍醐天皇が吉野で正統性を主張した南朝。約60年間にわたり朝廷が二つに割れて対立した時代のこと。
(2012年8月4日号掲載)
=写真=木々に覆われた大河原城跡