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16 敗戦(上) 〜いちるの望み断たれ上官の説明に騒然〜

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 東京はアメリカ軍の焼夷爆弾による空襲を、1944(昭和19)年11月14日以降、終戦までに100回以上受け、翌年3月10日のB29による東京大空襲では死者10万人といわれる犠牲者を出しました。


 霞ケ浦航空隊からも、東京方面を赤く焦がす夜空が確認できました。気になった私は翌日の訓練飛行の予定コースを延ばし、東京の上空近くまで飛びました。空襲の余燼で焦げくさい匂いが機内にも漂ってきました。眼下に広がる東京の焼け野原に愕然としましたが、まだ日本が負けるとは思いませんでした。


学徒に飛行訓練

 霞ケ浦で訓練ができなくなった我々は、すぐに北海道の千歳航空隊に移りました。B29を攻撃するために開発された「秋水」は、ドイツ軍の戦闘機を基本にして製作されたロケットエンジン搭載の迎撃戦闘機でした。パイロット訓練生の多くは学徒出陣したばかりの学生でしたから、何もわからない彼らにいきなり教えることは至難の業でした。飛行経験の浅い学徒出身者が民家に突っ込んで若い娘さんが亡くなったり、殉職者が相次ぎました。


 そのような訓練を最初は零戦でやっていましたが、特攻隊に持ち去られ、その後は九三式中間練習機になりました。このころになると、南方からの原油輸送が困難になり、代替燃料として松の根っこから作った「松根油」を混入使用したのでエンジントラブルを起こし、私も1度練習機で不時着しました。飛行機も燃料も粗悪になり、我々下級士官の間でも「一億総玉砕などと言ってるようでは、駄目かもしれんなあ」という会話が交わされるようになってきました。


 言論統制下でしたので、6月に沖縄で本土決戦が行われたことは、まったく知りませんでした。8月の広島、長崎の原爆投下の時は「放射能の影響で草が一本も生えなくなるだろう」というニュースを聞き、えらいことになってしまったと不安に思いましたね。それでも"最後の一兵卒まで戦う"という軍人教育をたたき込まれていましたから、日本が負けるわけがないと、「神風」が吹くことに期待していました。


 いちるの望みもむなしく8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し降服しました。司令部から正午に重大放送があると予告され集合。玉音放送は、ガーガーと雑音がひどく、天皇陛下が何を言われているのかよくわかりませんでした。しかし「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで戦争を終結するんだという意味で、戦争は負けたんだ」という上官の説明に隊内は騒然となりました。


 その場で自決する者さえいました。司令部からは「今後どうなるか分からないが、日本は占領軍に支配されるので、飛行機とか賠償に役立ちそうなものは、格納庫に納めておくように」との指示があり、証拠を隠すため機密書類を焼いたりしながら準備を進めました。


 民間人も冷たく

 戦争中に軍隊が民間人を抑圧していたせいもあったからでしょう。「兵隊さん」と慕ってくれた千歳の町の人たちの目が、手のひらを返したように冷たくなりました。おまけに格納庫の軍事物資まで何者かに持ち去られ、日本人に裏切られたようで悲しかったですね。


 しばらくすると「零戦関係の兵員は南方に連れて行かれ使役にされる」とか、「ソ連軍の落下傘部隊が降下し北海道は占領される」などのデマが流れました。

 間もなく終戦記念日を迎えます。私は本日96歳になりました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年8月11日号掲載)


=写真=3月10日の大空襲で焦土と化した東京(米軍撮影)=提供:東京大空襲・戦災資料センター


 
原田要さん