死にゆく妻の足うらのよごれ拭いてやる
一家のくらしふんばってきたこの足うらか黒き
死ぬなよ妻よもういも負わせぬ世にするに 栗林一石路
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照り付ける日差しを浴び、配給のサツマ芋を背負って帰る。それが腐っていたので取り換えに行き、戻って来た時のことだった。
一連の俳句が詠まれた事情を説明する前書きには泣かされる。
配給の芋をとりにゆき脳溢血をおこす。しかもなお芋を背負い炎天3町余(約330メートル)を家の裏木戸にたどりついて倒れ、そのまま十数時間後に死す。8月18日、このころ主婦の脳溢血に倒れるもの頻々。いずれも戦争の犠牲である。
行間に憤りがにじみ出ている。戦火による死の恐怖こそなくなったものの、今度は食糧不足が深刻になり、飢えが人々を苦しめた。一石路の妻たけじも、その犠牲になってしまう。1949(昭和24)年の夏だった。
米の売買を政府の統制下に置く配給が、戦時中と同じく続いていたころだ。その米も十分に行き渡らず、芋類などが代用に使われている。
一日三食、家族の食事に責任を負う主婦の苦労は、並大抵でない。何とかして食べ物を確保しようと、昼夜の別なく駈けずり回らなくてはならなかった。
その年、たけじは52歳。サツマ芋の入った重いリュックサックを背負ったのが、急死のきっかけではあった。同時に、それまでの積もり積もった無理が、全身を疲労させてもいただろう。
既に意識のない妻の汚れた足を、一石路は一生懸命に拭いてやる。拭いても拭いても、足の裏はきれいにならず、そこには痛々しくうおのめができている。

一石路は1894(明治27)年10月14日、小県郡青木村細谷の農家に生まれた。本名農夫(たみお)。幼くして父親が死去し、母親が子連れで隣家へ再婚したので栗林姓となる。
やがて農業青年へと成長した農夫の前に、若い女教師が現れた。青木小学校に着任した斎藤たけじだ。生家のある西塩田村(上田市)十人(じゅうにん)から2時間半もかけ、たけじは歩いて通う。
一番の近道、殿戸(とのど)峠を越えて行き来する姿を農夫は、畑を耕しながら眺めた。大正デモクラシーの自由と理想を追う潮流が、農村にも及んでいた。3年後の1921(大正10)年、二人は結婚する。
たけじの健脚がどれほどであったか-。片鱗なりとも知りたくて殿戸峠へ向かった。集落を過ぎると、軽トラックがやっと通れるほどの細い急坂が続く。
木立の中の道は昼間でも暗い。こんな寂しい所をうら若い女性が毎日一人で...と、驚くほかなかった。意思の強さがしのばれる。
上京してからは自由律俳句、プロレタリア俳句に打ち込む一石路を支え続けた。検挙、投獄された俳句弾圧事件も二人で乗り越えた。
同志的愛。そう表現するのがぴったりかもしれない。まさに「死ぬなよ妻よ」の絶唱である。
〔俳句弾圧事件〕1940(昭和15)年から43年にかけ、新興俳句、プロレタリア俳句を推し進める俳人たちが、治安維持法違反容疑で逮捕、起訴された。第一次、第二次にわたっている。
(2012年8月25日号掲載)
=写真=殿戸峠に通じる山の道