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17 敗戦(下) 〜先に信州へ帰るよう 涙ながらに妻を説得〜

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 敗戦が決まると、私は「よーし。それならソ連軍を道連れに自爆してやるぞ!」と決意。「俺と一諸にゲリラ戦で戦うやつはいないか!」と声を上げたところ、15〜16人が参加することになり、爆弾と食糧をトラックに積んで山へ運ぶ準備に取り掛かりました。厚木飛行隊からも若い予備士官が零戦で飛来し、「厚木では最後まで降伏せずに戦い抜く決意だから、この隊も共に戦おう」と我々をあおり立てました。しかし、千歳航空隊の和田三郎司令が冷静に説得し、零戦のプロペラを外して事なきを得ました。


軍の証拠焼き尽くす

 玉音放送の日から1週間して、家内たちが待つ官舎に戻ることができました。軍での記録が残っていると、どんな目に遭うかもしれないという思いに駆られ、家にあった書類だけでなく、写真などもすべて処分しました。後になって、私の約8000時間という飛行記録だけでも残しておけばよかったと後悔しています。


 軍人の我々は当分、故郷へ戻れないだろうと判断し、せめて家内と子どもたちは安全のため急いで信州へ帰るよう、妻を説得しました。だが、私と離れたくないと、なかなか応じてくれません。結婚以来、初めて見せた私の涙に覚悟を決めてくれ、水盃を交わし、髪の毛と爪を手渡して泣き顔で別れました。


 妻の精は3年前に亡くなりましたが、遺稿の『終戦の想ひ出』には、大変な苦労をして長野へ帰郷した様子が書かれています。その一部をご紹介します。


 「昭和20年8月15日、北海道の千歳も又特別に暑かった。生まれて初めて聞く天皇陛下の玉音放送との事に不吉な予感を抱きながら聞き入る。意味がどうしても分からず、半信半疑で庭に飛び出すと、前の伊藤さんの奥さんもかけより、二人で抱き合って炎天下に唯々涙するばかり。やがて冷静に敗戦と受け止めることが出来た。


 夫はなかなか帰宅せず、ひょっとしたら? 恐ろしい幻想に迫られる毎日だったが、やっと姿を見せた。その憔悴した姿、虚ろな眼は、何事かを決意させたかのような異様さえ感じ、開口一番『すぐ帰るよう、ここは危ないから...』。涙ながらに訴える夫の再三の言葉に意を決し、千歳を離れることにした。


 子ども2人分の食糧と衣類、それに野宿するかもしれないと幼児用の蚊帳を3歳の長男に持たせて函館行きの汽車に乗った。函館港は長蛇の列で、夫から『どうしても困ったら武官府を訪ねるように』と名刺を渡されていたことを思い出し、訪ねたところ、横須賀軍港に引き揚げる哨戒艇(しょうかいてい)への乗艇を許可された。


 だが1歳の長女に続き、長男も船酔いでぐったり死んだように。私も自分を見失うほど酔ってしまい、横須賀までの航海は無理だと下北半島の大湊で降ろしてもらった。港の旅館で2日間静養。体調が戻り青森駅へ。乗り換えで田舎の駅に降りたが、来る列車は満員で半日以上待たされた。そうしているうちに、親切な駅長さんが郵便車へ誘導してくれ、青森までたどり着いた。


 ところが青森駅では、またも難関が待ち受けていた。復員する軍人や軍属でごったがえし、ほとんどの人が物資とおぼしき物品を巻きつけているので身動きが取れない。軍属らしい人の協力で、親子離れず列車にやっと乗ることができ、千歳を出発して5日間くらいかかって、やっと吉田駅に着いた。(後略)」

すし詰め列車で帰郷


 その年の9月、復員事務を片付けた我々は、別れを惜しみながらすし詰めの列車で各出身地に向けて出発。私は日本海回り直江津経由で故郷へ向かいました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年8月25日号掲載)


=写真=千歳の官舎で長女を抱く妻(左)と長男(右下)


 
原田要さん