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55 小野田寛郎さんを考える3

 〈前回の「小野田寛郎略年譜」の続き〉

・1975(昭和50)年 ブラジルに渡り、苦難と闘い牧場開拓。

・76年 町枝さんと結婚。2人の出会いは小野田さんが帰国して間もないころ、東京のホテルニューオータニのレストランで町枝さんとばったり視線が合い、会話を交わしたのが最初。町枝さん談「彼の純粋さと気骨を瞬間的に理解。この人となら、これからの生涯を共にしてもよいと直観的に感じ...」。


 町枝さんは先に移住した小野田さんを追ってブラジルに渡り、現地で挙式。半年はブラジル、半年は福島県の「小野田自然塾」を主宰する小野田さんの活動を支えてきた。

・84年 福島県塙町に「小野田自然塾」を開校する。日本の将来は青少年の育成にこそありとし、自然との共生をその立脚点としている。


 ルバング島とは

 フィリピンのルソン島とミンドロ島との沖合、首都マニラから約150キロの地点にあるのがルバング島だ。淡路島の半分くらいの大きさという。


 小野田さんが潜伏していた当時、1960年代の島民は1万2000人。水田、焼き畑農業。山地が6割で密林地帯。野生の牛や豚が棲息する。バナナ、ヤシ、マンゴーが実り、大事な食糧源。道路の舗装率は3%。電気が4年前に24時間使えるようになった。気温は35度を超えて蒸し暑く、時々羽虫の大群が襲いかかる。


 小野田さんとルバング島

 小野田さんの羽田空港での第一声は、すっと背筋を伸ばして「日本の皆さん、長い間ご迷惑をかけました。永年にわたって判断を誤っていた私のために、本当に深い思いやりから多大の努力と尽力をいただき、まったく申し訳なく思っております。ありがとうございました」であった。


 また、30年におよぶ島での生活は?と問われ「うれしいことは何もなかった」。そして後年、「ブラジルでの牧場開拓の苦労は、ルバング島での生活に比べれば全く問題にならなかった。命を狙われることはないんだもの」とも語っている。フィリピン軍の日本兵討伐は93回に及んだという。30年の潜伏といっても洞窟に隠れていたのではなかった。


 狙われているとは、どういうことか。小野田さんの場合は、いつどこで、どこから狙撃されるか分からず、寸刻といえども気を許すことはできなかったのである。常に辺りに気を配り、風のそよぎにも銃を構え、30年間横になって寝たことはなかったというのである。眠るときは岩場の急斜面に背を向けて、銃を手放すことはなかった。


 「用便は必ず穴を掘ってから用を足し、埋め、上に草をかぶせておく。捜索隊が残した衣類は缶に入れ、土に埋めて保存、あとで自分で仕立てた。靴は海岸で拾ったものを活用...。武器は小銃、弾薬などを6カ所に隠した。隠し場所を忘れぬように年1回巡回する」など。


 衣と食と住がなかった生活であった。小野田さんは単に生き延び、逃げ延びてきたのではなく、"戦う"ために生きてきたのであった。小野田さんは「小塚さんが銃殺されて一人になったとき、山を降りようという気持ちにならなかったのか」という問いに、こう答えている。


 「それはない。復讐心の方が大きくなりました。誰だ、自分の目の前で、28年も一緒に暮らしてきた者を...。倒されたときの悔しさってありませんよ。(語気を強め昂ぶり、しばし絶句して)誰だって復讐心の方が強くなるんじゃないですか。...この30年間、任務のことだけを考えてきた。任務の90%は全うできたと思う。思い残すのは島田庄一伍長、小塚金七一等兵の戦友と共に帰れないことだ。指揮官(小野田)一人が国に帰るなんて...」


 ロビンソン・クルーソーなど一人での孤島暮らしの物語は数々あるが、小野田さんのそれとは全く次元を異にするものであり、質の違うものだ。命を狙われていることに対する警戒を持って暮らす日々と、その恐れのない日々を考えただけでも大変な違いだ。


 また、母タマヱさん談の「あの子は子どものころから商人になりたいと言うていたが、すっかり軍人精神になってしもうた。教育は恐ろしい」も忘れられない。〈つづく〉

(2012年8月4日号掲載)

 
美しい晩年