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56 小野田寛郎さんを考える4

 ここで小塚一等兵について触れておきたい。


 五銭と十銭

 1974(昭和49)年3月11日、小野田さんがルバング島を発つ前に小塚一等兵の墓に参ったことは既に述べたが、小野田さんはこんなことも語っている。「小塚の死後、真っ暗な山道を...ここはお国を何百里...の軍歌を歌い、戦陣訓を唱えながら歩いた」と。


 その小塚さんの遺品が新聞に大きく載ったことがあり、東京で遺品の展示があったりもした。そのわずかな遺品の中にボロボロの服のポケットにしまわれてあった五銭と十銭の穴あき銭があり、穴には紐が通されてあったというのだった。


 この五銭と十銭が何を意味するものであったか。人によっては五銭と十銭と聞いただけで、直ちにその意味を了解し、目頭が熱くなられる方もあろう。が、紐付きの2つの銭だけが大きく載った写真を見て「何? これ」という人(世代)も多かったのだ。


 数日後の新聞の「声」欄には「新聞に涙を落とし、五銭と十銭の写真を仏壇に供え、手を合わせずにはおられませんでした」という類の記事が載った。戦いに赴いたまま、いまは亡き我が子や父や夫のありし日の姿に、重ね合わせざるを得なかったのであろうと思う。


 善しあしを言うのではない。そのことを知る世代は加速度的に少なくなるばかりだ。「何? これ」としか発せられない世代は急増するばかりである。


 五銭とは四銭(しせんと読む)より一銭多い数で、その四銭は死戦に通じ、五銭はそれを越える意味を持つ。十銭は九銭(くせんと読む)より一銭多い数で、苦戦を越えて無事安泰を願うことを意味している。俗信であり、おまじないだと言えばそれまでであるが、要するに「お守り」であったのである。


 五銭を草むらにでも落とそうものなら探すに容易ではない。紐は落としてもすぐ分かるようにという目印であったわけだ。小塚さんはそれをある時は握り締め、肌身離さず持ち歩いてきたのであろう。ボロ服のポケットにそれだけあったというのは、何ともやりきれない話だ。おそらくは出征の時、母か妻から贈られたものであったろうと思う。


 戦時は戦場といわず銃後(戦場の後方、直接戦闘に加わらない一般国民)といわず、送る者と送られる者、そこには様々な生と死が繰り広げられてきた。死者たちは結局、いずこへ立ち去ったのか。無念の極みが荒ぶる魂とならないことを祈るほかない。


 自然の摂理は正しい

 フィリピンといえば中山義秀の『テニアンの末日』、大岡昇平の『俘虜記』や『レイテ戦記』、そして戦艦武蔵のことなど壮絶を極めた激戦に思いが及ぶのであるが、小野田さんは南海の孤島に漂着して生き抜いたというのではなく、常に敵に襲われるかもしれぬという危機状況のなかで、全神経を針のようにとがらせ続けてのものであった。しかも30年間、横になって寝たことがついぞなく、銃を膝に急斜面の岩壁に背をもたせたまま眠ったという事実-。


 そして、こうした生き方を余儀なくされ、自らを守り、戦い続けた30年間と同時代に、飽食があり華美があり、篤実を失い、便利と功利に走り、戦争を放棄したはずの国が着々と軍備を整え、原子力発電に頼り...それが文化だ文明だと浮かれ続けてきたという事実。


 小野田さん談-

 (文明社会に出てきた感想は-と問われ)「非常に危険な感じが強い。科学の進歩は目覚ましいが、自然の摂理(自然界を支配している理法)は正しい。人間はウソをつく。...愛国心がそんなに強いわけではないけど、今の日本は自己主張をしなさ過ぎだと思います。こんなだらしない国にするために命を懸けて戦争をしてきたわけじゃない」


 小野田さんの妻、町枝さん(74)は夫を評して「わがままやぜいたくを一切言わない人」と語る。   〈つづく〉

(2012年8月25日号掲載)


 
美しい晩年