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05 〜電鉄地下化と長野大通り〜

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 夏目市政から柳原市政にわたり、足かけ16年間にわたった長野市の都市整備で「長野大通り」の完成は市民の注目の的となった。


 第2次大戦後、建設省が進めてきた戦災都市復興を中心とした街づくりが一段落し、1964(昭和39)年ころから戦災に遭わなかった都市の改造事業が始まった。64年に密集地区街路調査が全国12都市で実施され、長野市では長野駅西口・東口周辺で行った。


 その調査結果を通して、長野市は市街地道路の未整備で慢性的な交通渋滞を起こしており、信越線と長野電鉄が市街地を分断。そのうえ国鉄貨物基地が西口密集市街地にあり、都市機能が劣っていることなどから、区画整理により市街地の整備を進めるべきだ-と指摘された。


 それに基づき、長野駅周辺西口土地区画整理事業が67年に着手された。土地区画整理地域は長野駅前広場から、西は上千歳町通り、北は錦町通り北、南東側は国鉄線路に至る10・7ヘクタールであった。本工事に着手したのは69年10月であった。


 一方、67年の都市計画では、三輪・相ノ木通りの交差点より南に新たに「長野大通り」の新設を決定。70年に長野・浅川線(「長野大通り」)事業が認可され、用地買収が始まった。


 「長野大通り」事業と長野駅周辺西口土地区画整理事業が進むと、市街地の長野電鉄線を高架にするか、地下にするかが問題になってきた。市は電車の騒音問題を考えると、建設費が高くても長野電鉄を地下化の方向で交渉を進めた。その結果、建設省から「連続立体交差式は高架式相当額を国庫補助の対象額として地下式を認める」との結論が出て、地下化が進められることになった。


 それに伴う長野電鉄側の負担増について、「十分配慮する」との知事・市長・電鉄社長の三者による合意が成立したのは72年7月であった。


 長野電鉄地下化の工事区間は三輪・長野駅間の地下複線式、延長2690メートル、工事完了予定は81年。地下駅として、善光寺下、権堂、市役所前、長野の4駅を開設した。事業費約129億円。「長野大通り」は全長2キロ、幅員25〜38メートルの2車線、事業費は108億5000万円で完成は83年だった。

(2012年9月15日号掲載)


=写真=長野大通りの完成祝賀パレード