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142 十念寺 源頼朝の伝説残す古刹

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 JR長野駅から善光寺へ向かう中央通り中間地点の西側にある。通称・十念寺(じゅうねんじ)は「紫雲山頼朝院(しうんざんらいちょういん)」と呼び、鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147〜99)と善光寺信仰の縁を反映したエピソードの多い古刹だ。頼朝の善光寺参詣の折、紫雲三尊形(仏)が現れ、十念を授けた(南無阿弥陀仏を10回唱える)のが創建のいわれだ。


 武家政治の創始者として,朝廷や西国に対抗し、東国の経営に忙しかった頼朝が死去するわずか2年前、わざわざ信州の山の中のお寺に参拝したのは疑問-というのが通説だ。


 頼朝が火災で焼失した善光寺の再建を号令、多くの援助・支援をしたことは史実だが、参拝したという明確な記録はない。


 この時代の一番正確な記録は鎌倉幕府の87年間を日記体で記述した『吾妻鏡』だが、頼朝が参拝したという年、1197(建久8)年は欠落している。


 「頼朝が参拝したであろう」との推測は、その2年前の95年8月に善光寺参拝が計画され、予定の時節が寒いことから翌春に延期された--という記述からだ。


 最近の研究では、将軍・頼朝の善光寺参拝に随行した御家人の日記があり、そこには行列に加わった家来たちの名が記されている。先陣20人、後陣20人だが、行列の真ん中にいたはずの将軍と取り巻きの重臣名の記述はない。先祖の氏名・業績を伝える私的文書(写本)のためだが、信ぴょう性はあると評価されている。


 権堂町のアーケード西入り口付近にある往生院には「池のハスの花を頼朝が大変めでた...」とか、善光寺山門前には頼朝の乗った馬が蹄を挟んだ穴という駒返り橋の伝説が残る。十念寺の伝説は、頼朝の来訪を非常に美化したものだ。親鸞の善光寺参詣の伝承に似ている。


 この寺は、南北朝のころには病院を経営、信濃守護と地元豪族の戦い(1400年・大塔合戦)の死者たちを、聖が十念を授けながら弔うなど社会・慈善事業を行った。戦国時代の一時期は廃絶したが、1600年代に復興。境内には丈6(釈尊と同じ高さ=270センチ)の阿弥陀仏座像を納めた大仏堂がある。


 この大仏は善光寺地震(1847年)で傷ついていたものを、現住職の袖山栄眞さんが数千万円かけて修復したものだ。その際に、胎内にあった発願銘札が解明され、大仏建立(1799年)の経緯が判明した。


 さらに、現在、大仏堂の右手前に復刻・復元されている名号石碑「南無阿弥陀仏」は、割れて市内2カ所に分散していたのを袖山住職が偶然に発見、元通りにつなぎ合わせたものだ。住職が記した由緒論文(「市史研究ながの」17号掲載)は推理小説より面白い。


(2012年9月15日号掲載)


=写真=「南無阿弥陀仏」の名号石碑(手前)と大仏堂

 
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