相聞 三 芥川龍之介
また立ちかへる水無月(みなづき)の
嘆きを誰(たれ)にかたるべき。
沙羅のみづ枝(え)に花さけば
かなしき人の目ぞ見ゆる。
◇
人、人、人...。夏の最盛期、軽井沢は若者たちで華やいでいる。新幹線だと東京から1時間余り、盛り場がそっくり信州の一角に引っ越したかのようだ。

にぎわいの中心、旧軽井沢通りを抜け、東の外れまで歩いてきた時、ようやくホッと一息つけた。目の前の木造2階建て「つるや旅館」の落ち着いたたたずまいが、往時の軽井沢へと時間をさかのぼらせていく。
1924(大正13)年8月23日までの約1カ月と翌年の8月21日から9月上旬まで、この旅館に当代の人気作家芥川龍之介が滞在した。
詩人で小説家の室生犀星ら文士たちに親しまれた老舗旅館である。ここで龍之介は、同じく一夏を過ごす歌人・翻訳家の片山広子と巡り合った。
ふつふつと湧きあがる恋心をどうにも抑えられない。「相聞」と題する一連の4行詩が、苦しい胸中を伝える。
水無月は旧暦の6月で、夏の盛りだ。絶えずそこへ思いが戻ってしまう切なさは、誰にも打ち明けることができない。
沙羅は夏椿のこと。しなやかに伸びるみずみずしい枝に、純白の花が咲くのを目にするにつけ、つくづく身に染みていとしい人の清らかな瞳と二重写しになってくるのだった。

軽井沢では、つるや旅館の主人らを交え、碓氷峠や追分に出掛けたりした。東京では手紙の交換を重ねた。一緒に演劇を見たり、食事をしたこともある。
大正13年といえば龍之介は32歳、もちろん妻子がいる。広子は14年上の46歳。大蔵省勤務、日本銀行理事の夫には先立たれていたものの、一男一女の母親だ。
なんとしても踏みとどまらなくてはならない。龍之介は翌大正14年、旋頭歌「越びと 二十五首」を『明星』3月号に発表した。うたの世界で恋情を燃焼させようとしている。
抒情詩「相聞」も、同じ苦しみの中で詠まれた。睡眠薬をあおって35歳で自殺する直前に書き上げた自伝的小説『或阿呆の一生』に、こんなくだりがある。
彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍った、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだった。
風に舞ひたるすげ笠の
何かは道に落ちざらん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ
既に一家を成す年上の女性を、世間の醜聞にさらさせない--。いろいろ解釈できるにせよ、慕う人の名誉こそ大事にしたいという龍之介なりの最大限の、愛情表現ではないだろうか。
理性、理知の人、龍之介が、情愛の波動を必死に乗り越えようとしたのだ。
〔旋頭歌〕短歌や長歌などと並ぶ和歌の形式の一つ。5・7・7の上3句と同じく、5・7・7の下3句の6句からなる。主に万葉集の時代に詠まれた。頭の上3句を繰り返す意味とされる。
(2012年9月8日号掲載)
=写真=旧軽井沢通りのつるや旅館