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18 復員後 〜公職追放が足かせ 夜な夜な戦場の夢〜

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 1945(昭和20)年8月30日、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、以後2000日間、最高権力者として、日本の占領統治を始めました。


 日本の「国体」はそのまま維持することになり、軍人も「現階級のまま復員せよ」との命令が出されました。私は海軍中尉の姿で信越線吉田駅(現北長野駅)に降り立ちました。


 どんな目で見られるだろうかと不安でしたが、「兵隊さん、ご苦労さん」と声を掛けられ、歩いて浅川の家に向かううちに「いやー、お帰り」と懐かしそうに声掛けしてくれる人たちがいました。千歳からずっと冷たい目で見られていましたので、「国破れて山河あり」の故事はこのことだと、古里のぬくもりをしみじみと感じました。


涙、涙で家族と再会

 私が「ソ連とゲリラ戦をやる」と言って別れたので家内も両親も、心配しながらも半ば諦めていたそうで、突然の帰郷に驚き、「よく帰って来た」と涙、涙で再会を果たしました。


 しかし、わずかの農業では妻と子ども2人、年老いた両親を養えないので、県庁内にある海軍の世話課へ就職の斡旋を頼みに行きました。最初は逓信省の管理人を紹介され、次に農学校(現長野吉田高校)の事務員を、最後に中部電力の集金人を受験しましたが、どこも公職追放に引っ掛かるという理由で採用されませんでした。


 いくらGHQ(連合軍総司令部)の命令だとはいえ、お国のために命懸けで戦ってきた我々を国は守ろうとしない。本当に情けなく思いましたよ。特に予科練習生や少年航空兵上がりの若者たちはグレてしまって、「与太練」といわれるようになり残念でした。


 GHQによる公職追放令で政界・財界・教育・マスコミやその他の要職者が追放され、職業軍人は公職に就くことを禁じられました。「最強の零戦パイロット」といわれた岩本徹三さんも公職追放で北海道へ開拓に行き、体を壊して故郷の島根へ戻り、畑仕事や鶏の飼育、駅前の菓子問屋など職を転々としたようです。戦後の世相への適応ができず、アルコール依存症になり、38歳で病死されました。不遇な人生でしたね。


 敗戦の年の11月20日、GHQは鐘紡長野工場を接収し、長野軍政部を若里に置きました。また、三輪田町の信州会館にはGHQ直属の対敵情報機関(CIC)が置かれました。このころ私は、GHQの命令で戦歴を提出するよう求められ、2日以上家を空ける時は所在を明確にしておくよう指示されました。


GHQに怯える日々

 私は「いよいよ来るべきものが来たな」と思いました。野良仕事をしている時、田舎道を砂ぼこりを上げて走るジープを見るたびに、戦犯として捕らえに来たのではないかと怯える日々が続きました。敗残兵の身だからと覚悟は決めていたものの、戦後2〜3年は夜な夜な戦場で戦う夢を見てはうなされ、妻に揺り起こされる毎日でした。


 実戦では一度も追われないのに、夢の中では逃げても逃げても敵機が追い掛けてくるのです。苦しくて「わーっ」と叫んだところで起こされ「夢か...」。そんなことが10年くらい続きましたね。しかし、無念の死を遂げた戦友のことを思えば、私の苦しみなど当然と思うようになり、以来、仏壇に祀る戦友の霊に毎日手を合わせています。

(聞き書き・松原京子)

(2012年9月1日号掲載)


=写真=CIC本部が置かれた信州会館(「長野市誌」第15巻から)

 
原田要さん