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018 命をつなぎ留め ~病む身なればこそ新鮮に~

生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉(とんぼ) 夏目漱石

        ◇

 見上げる空は、どこまでも青く澄み、限りなく高い。アカトンボが群れて舞っている。


 いかにも秋らしい。爽やかそのものだ。「天高く馬肥ゆる秋」という言い習わしをも、思い起こさせる。


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 冒頭の3文字「生きて」が、重い意味を秘めている。もしかしたら死んでしまって、もう二度と空を仰げなかったかもしれない。アカトンボを目にできなかったかもしれない。


 幸い、それができた。死の際から立ち戻った。まさしく「生きて」である。生きていることを実感し、その感動が込められている。


 昨年10月、この一句を刻んだ句碑が、長野市の善光寺東参道沿いに据えられた。1911(明治44)年、漱石が善光寺を訪れて100年の節目を記念する建立だ。


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 碑面の文字は、長野市篠ノ井の書家川村龍洲さんが書いた。伸びやかに、温かみを帯びた筆遣いが、「生きて」の情感を盛り立てる=写真下。


 11年6月17日、漱石は信濃教育会の招きに応じ、鏡子夫人と信越線の列車で長野を訪れた。その夜は犀北館に泊まり翌18日、善光寺をお参りした後、県会議事堂で「教育と文芸」と題する講演をしている。


 『吾輩は猫である』の評判とともに小説家デビューした漱石である。英国留学までした英文学者の道を捨て、朝日新聞社に入って『三四郎』『それから』『門』の三部作を世に問うている大作家だ。


 信濃教育会は軽井沢駅で出迎え、長野駅では会長ら幹部がうちそろって歓迎した。講演会場は1300人余りの聴衆で埋まっている。


 漱石自身、その後の『行人』『こころ』『道草』と書き続く転機のさなかだった。前年には、いわゆる「修善寺の大患」で生死の境をさまよい、人生観、 文学観を大きく変えたとされる。


 そんな状況を本人の日記から抜粋すると。

 《明治43年8月6日》十一時の汽車で修善寺に向ふ。

 《8月8日》一体に胸苦しくて堪えがたし。

 《8月12日》夢の如く生死の中程に日を送る。

 《8月16日》苦痛一字を書く能はず。


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 8月24日には、大量に血を吐き、人事不省に陥る。長らく患っていた胃病が悪化し、東京都内の胃腸病院に2カ月ほど入院した後、転地療養のつもりで訪れた伊豆修善寺の宿だった。


 それが裏目に出た。東京から駆け付けていた医師たちが、カンフル注射を立て続けに打つ。危ういところで一命を取り留める。


 快方に向かうにつれ俳句をしきりに作った。


 《9月21日》昨夜始めて普通の人の如く眠りたる感あり。

生き返るわれ嬉しさよ菊の秋


 そして9月24日に登場するのが〈生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉〉だ。信州を訪れる9カ月前に当たる。


 〔漱石と俳句〕20代で知り合った正岡子規との交友の中で俳句を詠むようになる。子規は漱石の実力を高く評価。生涯を通じ約2600句に上る。主要な作品は岩波文庫『漱石俳句集』(坪内稔典編)に。

(2012年9月22日号掲載)


=写真=善光寺の東側に立つ句碑

 
愛と感動の信濃路詩紀行