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19 とにかく仕事 〜家内と一緒に何でも 牛乳販売店が軌道に〜

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 敗戦後の日本は、全ての価値観がガラッと変化し、混乱のショックから立ち直るまでに時間を要しました。

 公職追放で職に就けなかった私は、戦時中に父が農家組合から飼育を割り当てられていた赤牛(朝鮮牛)を使い、村の山林で伐採された材木を自動車の入る道路まで引き出す仕事をしました。最初は懐かなかった子牛でしたが、愛情をかけるうちに顔をすりつけ、舌でなめるほどになりました。この仕事は、よいお金になりました。


 1946(昭和21)年に次男が生まれ、長男は6歳、長女は4歳になり、家族は7人に増えました。田舎暮らしとはいえ、5〜6反歩の田んぼでは生活が苦しく、家内と共にいろいろな仕事に取り組みました。


牛売り次男の医療費

 疲労困憊の日々を過ごしていた最中、次男が囲炉裏に転落して大やけどを負い、善光寺下の医院に入院しました。自家中毒になって尿がたまり危篤状態になりましたが、そのころ出始めたペニシリンの薬効で一命を取り止めることができました。高額な費用は、私の片腕となって働いてくれた赤牛を手放して支払いに充てました。


 公職追放はやがて解除されましたが、今さら職を探す気分にはなれず、思案の末、なけ無しの金を工面して北海道から乳牛を買いました。当時、吉田に明治乳業の工場がありましたので、8頭の乳を搾り、1日2回、自転車の両脇に一斗缶をぶら下げて運ぶのですが、運搬は家内がやってくれました。羊も2頭飼っていましたので、毛を紡ぎ子どものセーターなども編んでくれました。生活を守るために、本当によく働いてくれました。


 62(昭和37)年には、都市ガスや上下水道の完備した県のモデル住宅地として、浅川団地が造成されました。団地の一角に薬局、菓子店、魚屋、酒屋、米穀店、八百屋などの商店街ができました。八百屋の枠があるというので、にわかづくりの八百屋に転身しましたが、赤字の方が大きくなるばかり。


 長野中学時代の同級生だった西澤君の勧めで、西澤書店の支店として本屋もやってみました。北部中学が開校したばかりで、しばらくは良かったのですが、これも素人商売でうまくいきませんでした。次に牛乳販売店を始めました。この商売は軌道に乗って、城山動物園まで販路を拡大し、多い時は月に5000本も販売したほどでした。


 そのころ、大きな果樹園を経営している親戚から、リンゴを買い付け市場に出す仕事を勧められました。乳牛を全部処分して中古の2トントラック、ライトバン、オート三輪車を購入し、東京、横浜、群馬、軽井沢まで販路を開拓しました。浅川地区に車は2台しかないころでしたが、家内も免許を取りライトバンを運転しました。


碓氷峠で三輪車横転

 思いのほか順調にスタートしましたが、「好事魔多し」ですね。3月初旬、私と家内はオート三輪車にリンゴを満載して前橋の市場へ向う途中、凍結した碓氷峠のカーブでスリップして横転。リンゴは谷底へ。車も廃車に。この事故が引き金となって、義弟夫妻のトラックも渋谷でエンコ。さらに、リンゴの代金回収も思わしくなくなってきたのです。


 仕事で家を留守にしている間に、長女が盲腸炎で手術することになりました。幼な子を残しての遠出は禁物と反省し、この商売は打ち切り、牛乳販売に戻りました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年9月8日号掲載)


=写真=浅川団地の一角に開店した牛乳販売店


 
原田要さん