記事カテゴリ:

20 幼稚園長に 〜妻の言葉に背押され 人を育てる手伝いを〜

 

20-harada-0915.jpg

「光陰矢の如し」と申しますが、県内初の「モデル住宅地」として1962(昭和37)年に造成された500余戸の浅川団地も50年を経過しました。若くして持ち家を得た方たちも老境に入り、近年は2世代で住むための改築ラッシュで、モダンな家が目に付くようになりました。


 64年のある日、当時の浅川支所長をはじめ数人が見え、かしこまった様子に何事かと思ったら「ぜひとも、自治会長を引き受けてほしい」との依頼でした。「そんな器でもありませんし、牛乳屋の仕事で手いっぱいで時間的にも余裕がありません」と再三辞退しましたが、「生活基盤を異にする旧村民と団地住民の融和を図るために」との理由で、押し切られてしまいました。


自治会長で奔走

 団地は寄り合い所帯のため、まず自治会を構成する機構・規約の制定から始めました。会合する場所もなく、私の店舗の2階で開いていましたが手狭になり、押田区の公会堂を拝借しました。粘土質のため道路の舗装や、公園の整備、婦人消防隊の結成、バスの停留所や団地内の案内板設置など、何から何まで奔走の日々でした。


 特に思い出に残っているのは、集中豪雨の際、近所の子どもが用水に流され、近くにいた妻がとっさにその子をつかんで引き上げ、人命救助をしたことです。このことを当時の夏目忠雄市長に報告したところ、早速、防護柵を設置してくださいました。


 そうした中、住宅ローン返済のため共働きをしたいという若いお母さんたちから「幼い子どもの面倒を見てくれる人を斡旋してほしい」との要望が相次ぎました。その都度、お世話をしてきましたが、だんだん適任者の確保が難しくなり、そこで私は、多くの乳幼児を預かる共同施設をつくることを考えました。


水田提供し資金に

 そんな折、湯谷小学校建設計画が持ち上がり、代替農地として約30アールの田んぼを譲ってほしいという申し入れが長野市からありました。


 父親に相談したところ、「教育のためにお役に立つなら」と賛成してくれましたので、農地を提供し、その代金を元手に団地の一角に68年、「北部愛児園」を開設しました。私が52歳の時でした。


 それを機に、自治会長を元校長の野村裕亥さんにバトンタッチして、妻もおむつ洗いや乳児の食事作りに園に通いました。


 その後、「就学前の子どもを受け入れてくれないか」との要望がありました。幼児教育の知識などありませんし、何より、戦争中に人殺しをしてきた人間だからふさわしくない、と固辞しました。しかし、福祉の仕事に関心の高かった妻の「戦争で人を殺したことを反省し、これからは人を育てる使命に生きましょう」という言葉に背中を押されました。


 「みんなの幼稚園」という趣旨で私立の無認可保育園を誕生させました。その後、園児も増加し、父母からのアンケートで「ひかり園」と改名。園児も保母さんも増え、施設も拡充し、72年、「浅川学園ひかり幼稚園」として認可されました。同時に私も園長としての資格が認められ、以来2010年8月まで園長を続けました。


 最初は小さな赤ん坊7人を預かってスタートした幼児教育ですが、現在は園児が116人になりました。決してやりたくて幼稚園経営を始めたわけではありませんが、自然にそうなっちゃったんです。これも運命だと思います。

(聞き書き・松原京子)

(2012年9月15日号掲載)


=写真=浅川団地に開設した「北部愛児園」で

 
原田要さん