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21 先輩から活 〜園長に後ろめたさ 天職だと思い直す〜

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 私が戦争体験を語るようになったきっかけは、1991(平成3)年1月に勃発した「湾岸戦争」です。


 アメリカを主力とした多国籍軍によるイラクへの空爆シーンをテレビで見た若者たちが「花火のようできれい」「テレビゲームみたい」などと語っているのが、想像を絶するような地獄を体験した私には大変ショックでした。


 テレビ報道の画面を、まるでゲーム感覚で捉えているなんて「これはいけないぞ!」と危機感に駆られ、戦争の真実を次世代に伝えるのが"私の使命"と考え、75歳から証言を始めました。


 妻と2人だけの過去

 零戦パイロットだった過去は、それまで私と妻の2人だけのものでした。国を守るために一生縣命戦ってきたのだから隠すことはないのだが、語るうちに人々から「あの人は零戦のパイロットだったんだよ」といわれるようになってきました。


 そんな声を耳にするたびに、私のような人殺しをした者は幼稚園の園長をやっている資格がないのでは、と後ろめたい気持ちが強くなってきました。


 園長を辞めようかと思い悩んでいたある日、写真家でノンフィクション作家の神立尚紀(こうだちなおき)さんが、「零戦最後の証言II」取材のため我が家を訪れました。私の話に、千葉県船橋市で4つの保育園を経営している生田乃木次(のぎじ)さんを紹介されました。


 生田さんは1905(明治38)年生まれで、乃木希典大将に続けと「乃木次」と命名されたそうです。32(昭和7)年、中国の蘇州上空で日本軍初の敵機撃墜パイロットとして活躍し、一世を風靡しました。上海領事館で行われた祝勝会には、「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」として有名な川島芳子も出席。当時は浪曲や琵琶にも歌われ、映画化されるまでに及び、全国からファンレターが山のように寄せられ、中には子役だった森光子さんからの手紙もあったそうです。


 自らの意志に関係なく英雄に祭り上げられた生田さんは、「同期生が戦死したのに、いい気になっている」と海軍部内からのそねみや世間の誹謗中傷に嫌気が差し、休養届を出して家に引きこもりました。東郷元帥からも私邸に呼ばれ、慰留されましたが決意は固く、海軍を去りました。


 戦後、魚屋で財を成した生田さんは、芸者という職業差別で海軍大臣から婚姻を認められなかったイサメ夫人からの「自分は貧しい家に生まれたため芸者に売られた女です。そんなことが少しでもなくなるように、恵まれない家庭の子どもたちを預かりましょう」との言葉で保育園を創立しました。


 私が伺った時は、夫人は既に亡くなっており、遺影を指して「見てみろ、海軍大臣が認めなかった女房が勲四等宝冠章をもらったよ」とうれしそうでした。過去の罪の意識が抜けなくて、園長を辞めたいという私に「何を言ってるんだ。お国のために軍人としての責任を果たしたのだから、いつまでも自分を卑下しちゃあいけない。くよくよせずに、むしろ将来を担う子どもたちを育てることが償いになるんだ」と諭されました。


 じいちゃん先生に

 そして「俺は92歳の現役で『お父様先生』と呼ばれて、4つの保育園を回っているんだ。お前は俺より10歳も若いじゃないか」と活を入れられました。


 大先輩の励ましに、これからの若い命を育てることが私の天職だと思い直し、園児から「じいちゃん先生」と呼ばれ、純粋無垢な子どもたちの笑顔に囲まれ、感謝の日々を過ごしています。

(聞き書き・松原京子)

(2012年9月22日号掲載)


=写真=大先輩の生田乃木次さん


 
原田要さん