
芹田農協北側の市道を西進すると間もなく右側に栗田神社の鳥居が見える。境内の由来によると、正式には「水内総社日吉大神社」という。この神社の本殿の場所が栗田城本丸跡で、栗田氏の居館があった=写真。
長野市街地の中心にあるこの城は、善光寺平を統治するには格好の位置である。
平安時代の末期、坂城村上氏の支族がこの地を支配したのが栗田氏の始まり。次第に勢力を広げ、戦国期には善光寺の別当として権威があったという。
平安以来400年にわたり統治の中心となった栗田城は東西700メートル、南北1キロの城域があり、2重の濠を巡らす巨大な平城であったという。近年まで内濠の一部が残っていたというが、現在は埋め立てられて遊園地となり、かつての広大な城域をしのぶことはできない。社殿の後方に、わずか土塁の一部が残されているのみである。
戦国期の城主は栗田寛安、その子鶴寿。武田軍が北信濃に迫ると武田氏に下り、1555(弘治元)年、第2次川中島の戦いでは武田軍の支援を受けて旭山城に入り、横山城に陣を構えた上杉軍を大いに苦しめたという。
今川氏の仲介で甲越が和睦した後、栗田氏は善光寺仏を奉じて甲斐に移住したため、栗田城は破却され廃城となった。武田氏が滅亡して40年後、栗田氏は善光寺本尊と共に帰還したが、住民に受け入れられず一族の流浪の旅が始まったという。各地に栗田姓が見られるが、戸隠神社の別当を務めた栗田氏は水戸藩に奉職し家系を保ったという記述がある。
境内にはケヤキの古木が数本あり、樹幹の腐朽が進んで倒木寸前の危険な状態にあるが、この古木は栗田氏の栄枯盛衰を物語っているかのようだ。
(2012年9月15日号掲載)