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52 活文禅師とは 〜似た性格 良寛に私淑〜

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 佐久間象山に大きな影響を与えたとされる活文(かつもん)禅師とは何者か? 龍洞院に残る資料や上田市史などから垣間見ると-。


 皇紀2600年(昭和15)記念に発行された上田市史によると「活文禅師は龍洞院を退院後、岩門大日堂に閑居し、...支那語、禅学、詩文などを学ぶもの踵(きびす)を接す」とある。


 一方、勝俣英吉郎・上田市長(在職は1924年7月14日〜30年4月7日)は、活文禅師建碑趣意書に要旨、次のように書いている。


 「佐久間先生が活文師から学ばれたものは、支那語の学習というが如き末技(まつぎ=つまらぬわざ)以外に、もっと深い何物かがあったであろう、またあらねばならぬ」


 禅師の入寂(僧侶の死)は1845(弘化2)年5月28日で享年71。遺骨は龍洞院、信定寺、常田毘沙門堂境内の「鳳山禅師追福之碑」の下に、各々分骨、埋葬されている。


 活文禅師については、「自分を鼻にかけて生きてきた僧侶で、象山とよく似た性格だった」と指摘する人もいる。2人は松代出身の"よしみ"か、気心が分かり合っていたのだろう。


 写真は活文自作の木像。いつごろ制作したものかは分かっていないが、曲ろく(禅僧が掛ける腰掛け)に腰を掛けた姿で、高さ約20センチ、幅約15センチ。ふだんは厨子の中にある。禅師は彫刻でも卓越した技能を持っていた。


 活文師は私淑していた良寛禅師(越後国・出雲崎出身)の入寂に際し、次のように追慕の情を注いでいる。


 望月遥憐旧隠山

 嘯詩徒欲見其顔

 詠梅佳調今猶在

 吟嘯高僧去未還

 

月を望んで遥かに憐れむ旧隠山

詩を嘯(しょう)して徒(いたずら)に其の顔に見(まみ)えんと欲す

詠梅の佳調、今猶在り

吟嘯の高僧、去って未だ還らず


 良寛は1831(天保2)年正月6日に入寂。享年75(龍洞院・村上博優住職の解説による)。

(2012年9月22日号掲載)




 
象山余聞