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57 小野田寛郎さんを考える5

 体験や実学から生まれた言葉には、たじろぐほど重いものがある。小野田さんにはそれがある。以下、その語録。


 科学の妄信とそろばん勘定

○東日本大震災と原発事故は日本全体に罰が当たったのではないか...日本に地震が多いのは誰でも知っている。危機管理ができていなかったのは、ずぼらとしか言いようがない...。科学を妄信し、そろばん勘定でやってきたから。


○自然は大きすぎて人間の力ではとてもコントロールできない。...ルバング島では戦友を失った後の最後の1年が本当につらかった。人間は仲間がいなければ生きられない。...今回の震災で「人はひとりでは生きられない」ことに気付き、絆の大切さを思い知った...。


○人に迷惑をかけず、家族の手を握って死ぬのが理想的...日本で死にたい。昨年、肺がんの可能性があり、余命2カ月と言われたが、...どういうわけか予定を過ぎても元気で...またブラジルに来た。痛みはないし、食欲もある。...日本に戻って子どもに自然の怖さや大切さを教えたい。...人間は強くならないと優しくできない。


○子どもたちを強くしないと、日本に将来はない。目標を持ったら子どもは自ら動き出しますよ。


○戦争の主な原因は食糧や資源争いで両方に「正義」がある。地球人口が増え続ける以上、戦争はなくならない。平和は無条件では得られない...。


 孤独感を抱いたことはない


 〈ルバング島で〉

○衣服の仕立ては自分でやった。一番苦労したのは食糧です。


○(30年間、なぜ山から出てこなかったのか)

私は軍人として命令によって派遣された。谷口少佐の命令がない限り、帰る気持ちはなかった。


○(一番つらかったことは)

 戦友を失ったこと。


○(日本が負けたことを知っていたか)

自分としては全力を尽くしている限り、その勝敗については申し上げることはない。


○(いつ敗戦を知ったか)

自分に命令を下達されたその時である。命令を受けたのは今日(昭和49年3月9日)である。


○(毎日、山中を歩き回っていたのか、目的は)

その通りだ。自分の任務を遂行するためと、自分に必要な最低限のバナナやヤシの食糧を得るために。


○(病気になったことは)

過労で発熱した程度で、病気したことはない。


○(孤独な生活の中で寂しかったことは)孤独感というような弱々しい感じを抱いたことはない。


○(日本に帰ったら)できるだけ早い時期に、2人の戦友の家を訪ねて、詳しく事情を説明したい。そうすれば自分もいくらか、気が楽になるのではないか。


私の戦後は昭和49年3月9日からだった

そして平和とは

 〈小野田さんは語る〉

 私は祖国が敗戦した後も...ルバング島で戦い続け、戦後29年たった時...鈴木紀夫青年との奇遇から...帰国することができた。武装解除も取り調べもなく、捕虜として取り扱われたわけでもない。...敗戦の悔しさ、惨めさも、屈辱も味わえるものではない。個人的な実感は「勝てなかったが負けなかった」というところだった。30年ぶりに見た祖国には、戦禍による廃虚は跡形もなく...祖国が敗れていた事実を確認させられ、無念さだけを味わった。私の戦後はそれからであった。


 各国にはそれぞれの正義があり、主張、国策があり、それが衝突するのが戦争だ。ひとたび戦争になれば、平時の常識など存在しない。


 戦争によって被ると予想される人的、物的損失を上回る苦痛を受けてもなお、耐え忍ぶ覚悟ができていることが、平和を守るうえでの前提である-。


 小野田さんにとっての戦後は、昭和49年3月9日からだという発言と、前述の「科学を妄信し、そろばん勘定でやってきたから」には千金の重みがある。

〈つづく〉

(2012年9月8日号掲載)


 
美しい晩年